再考の種をもらった

以前にも述べたことがありますが、
西晋の傅玄に「惟漢行」という楽府詩があります。

魏王朝の「相和」十七曲の一つ「薤露」に、武帝曹操が歌辞を寄せた「惟漢二十二世」、
これに基づいたことを楽府題に明示する傅玄「惟漢行」ですが、
その内容は、かの鴻門の会のドラマティックな場面を詠ずるものでした。
これは、西晋時代、曹操の「薤露」が宮中で歌われなかったからこそ許されたことでしょう。

こうした内容を、昨日の授業で交換留学生に話していたところ、
傅玄が魏の時代にこの楽府詩を作ったという可能性はないか、との質問を受けました。

傅玄(217―278)は西晋の人とされていますが、
たしかに、司馬炎が魏から受禅した265年12月の時点で彼はすでに49歳、
司馬懿が曹爽を殺して魏王朝における実権を掌握した249年時点で33歳ですから、
傅玄は青壮年期を、司馬氏が魏王朝を骨抜きにしていく時間の中で過ごしたことになります。

傅玄は、西晋王朝の雅楽の歌辞を多数制作している一方、
後世にいわゆる「清商三調」の歌辞、また宮廷音楽とは無関係の雑曲歌辞も作っています。
こちらの「漢魏晋楽府詩一覧でデータの並べ替えをしてみていただければ明らかです。)
その中で、魏の宮廷音楽「相和」の、曹操「薤露」に由来する歌辞は異質です。
しかも、そのことを楽府題によって明示している。

傅玄「惟漢行」を、その成立年代も含めて、
彼の魏王朝に対する見方と合わせて考え直したいと思います。

それではまた。

2019年12月12日