厳可均と丁晏の同質性

ずいぶん間が空きました。
どんなに慌ただしい日々を過ごしていても、
ここに戻ってくることができるという場所を確保しておきたいです。

さて、少しずつ進めてきた『曹集詮評』のテキスト校訂が、
あと少しを残すだけとなりました。

巻10「王仲宣誄」の校訂を終えて、次の「倉舒誄」に入ったところ、
曹植作品を収める厳可均『全三国文』巻13~19のどこにも、
当該作品の、言葉の片鱗も見当たりません。

厳可均のような人でも落とすようなことがあるのだろうか、
と、ちょっと親近感を持ったりなどしたのですが、
やはりそれは間違っていました。

厳可均の編集が粗雑だったのではなくて、
「倉舒誄」という作品は、ほぼ間違いなく曹丕の作なのでした。

このことについて、丁晏が『曹集詮評』に次のように記しています。

この作品は、『藝文類聚』巻45・『古文苑』巻9(巻20?)では、
魏の文帝、曹丕の作として引かれている。
その作風を見るに、他の曹丕の作品に似通ったものがあるし、
「宜逢分祚*1、以永無疆(宜しく分祚に逢ひて、以て永く無疆なれ)」のように、
陳思王、曹植の言葉としてはふさわしくないと思われる句もある。
恐らく、明・張溥『漢魏六朝百三名家集』の『陳思王集』は、
『藝文類聚』所収の本作品が、曹植「任城王誄」に隣接して引かれているため、
誤って曹植の作品として採録したのだろう。
ただ、旧(張溥)本に載せているので、とりあえずは録した上で誤りを正しておく。

作風等による作者の比定は、自分には判断できないところですが、
それ以外の根拠については、全面的に納得できます。

厳可均は、明の張溥本*2などには見向きもせず、
より確かな文献である『藝文類聚』や『古文苑』に基づいて、
「倉舒誄」という作品を、『全三国文』巻7に曹丕の作として収載しています。
張溥本に対する扱いは異なっているのですが、
その学術的姿勢には、丁晏との間に同質のものを感じます。

厳可均(1762―1843)と丁晏(1794―1875)とは、ほぼ同時代の人です。
学風の近しさは、その時代の気風によるものなのでしょうか。
けれど、近くに寄って見てみれば、個々の違いが目に入ってくるのでしょう。
自分も、誰彼となく同時代人という枠だけで括られたくはありません。

なお、丁晏によると、明の万暦年間の程氏刻本は、本作品を採っていないそうです。
丁晏の『曹集詮評』は、この程本を底本としています。

2023年4月24日

*1「分祚」の二字、『古文苑』巻20は「介祉」に作る。
*2 張溥『漢魏六朝百三名家集』の性格については、こちらをご覧ください。