叔父と甥

曹植「怨歌行」について、その作者を明帝曹叡だとする説があります。*
(この作品の作者説をめぐっては、以前にも少し考えてみたことがありますが、それとは別に。)

『宋書』巻22・楽志四、「漢鼙舞歌五篇」に続けて示された「魏鼙舞歌五篇」の最後に、
「為君既不易」という、曹植「怨歌行」の第一句と同じ詩題が挙がっており、

これらの鼙舞歌辞について、陳の釈智匠『古今楽録』(『楽府詩集』巻53に引く)が、

漢曲五篇:一曰「関東有賢女」、二曰「章和二年中」、三曰「楽久長」、四曰「四方皇」、五曰「殿前生桂樹」、並章帝造。
魏曲五篇:一曰「明明魏皇帝」、二曰「大和有聖帝」、三曰「魏暦長」、四曰「天生烝民」、五曰「為君既不易」、並明帝造、以代漢曲。其辞並亡。

と記し、「為君既不易」を含む魏の鼙舞歌辞の作者を「明帝」としていることに拠ります。

もっともこれは、明帝の治世下で作られた、と捉える方が妥当かもしれません。
(後漢の鼙舞歌辞が「章帝造」とされているのと同様に。)

それで、少し引っかかったのが、「其の辞は並びに滅ぶ」と記されていることです。

六朝末の時点で本当にその歌辞がすべて散逸していたのか、
それとも陳の釈智匠がたまたま目睹できなかっただけなのかは不明ですが、
もし如上の記述が事実であるならば、
魏の鼙舞歌辞として歌われた「為君既不易」は、
同じ句を冒頭に置く曹植「怨歌行」とは別ものだということになります。
曹植「怨歌行」は現在に至るまで伝わっているのですから。
(より端的には、陳に近い初唐の類書『藝文類聚』巻41に引かれて伝存が確認できます。)

もし仮に上述のとおりだとして、
別の歌辞でありながら第一句を共有しているとはどういうことでしょうか。

曹植「怨歌行」と魏「鼙舞歌・為君既不易」とが同じ古辞に基づいた、
もしくは、曹植「怨歌行」がアレンジされて魏の鼙舞に用いられ、それが亡びた、
あるいは、魏の鼙舞歌辞を曹植「怨歌行」が取り込み、曹植作品のみが後世に伝わった、
等々、いろいろな仮説が立つとは思います。
が、これ以上は遡れません。

ただ、それでも興味を惹かれるのは、
これが曹植と明帝曹叡とのつながりの一端を示しているように感じられるからです。
(二人の関係については、以前にも少し考えてみたことがあります。)

ちなみに、曹植が名誉を回復し、その作品が大切に保存されることとなったのは、
明帝の末年、景初中(237―239)の詔によってでした。(『三国志』巻19・陳思王植伝)

それではまた。

2020年3月16日

* 逯欽立『先秦漢魏晋南北朝詩』(中華書局、1983年)巻6、p.426に指摘する。