古典ではなくて
こんばんは。
今日も昨日と同じく、西晋王朝の宮廷儀式で用いられた歌辞を読みながら、
ふとこのような考えが浮かんできました。
文化人類学者が、現代文明の入っていない地域に分け入って調査するように、
こうした文献は読まれるべきではないだろうか。
これを古典と思うのではなくて。
古典とは、時間のやすりに耐え抜いて生き残った、人類共通の知的遺産でしょう。
そう思うから、落胆したり、妙な反発心を抱いたりするのだと思います。
そうではなくて、これは未知の文明なんだと思えばいい。
未知ではあるが、幸い、自分たちにもなんとか理解できる言葉によって記録されている、
それを読み解けば、彼らが持つ独特の世界観が見えてくるだろう、
そう思って取り組めばよいのではないかと思ったのです。
文化人類学という方法は、
たとえば、現代日本企業の特異性を明らかにし、
その問題を解決するためのヒントを提供したりすることもあると聞きます。
それならば、過去の文明を考察対象とすることもありえないことではないでしょう。
問題解決といったような部分は除くとしても。
難しいのは、中国古代文明が完全に過去の遺物とはなり切っていないことです。
一部は、現代の東アジア社会に屈折を経た形のものが残存している。
それを嫌悪するにしても、反対に美化してこれを利用しようとするにしても、
本来の姿をまっすぐに見ることを阻害する点では同じです。
もし、そのどちらでもない中立の立場を取ることができたならば、
私たちはそこに興味深いものを見るに違いありません。
同じ人間の考えることですから、崇高さも卑しさも、美しさも醜さも、
私たちとは同じ地下水脈で通じているはずです。
2020年9月3日