古典に基づく表現

先日の雑記で言及した「皎若」という語は、
その下に、月光が続く場合もあれば、日光が続く場合もあります。

今、そうした発想を含んでいる古典を示しておきます。

まず、『詩経』陳風「月出」に、
「月出皎兮、佼人僚兮(月出でて皎たり、佼人僚たり)」とあって、
ここでは、月光が「皎」と形容されています。
古楽府「白頭吟」の表現と同じです。

他方、日光を「皎」と形容する例が、
王褒「九懐・危俊」(『楚辞章句』巻15)に、
「晞白日兮皎皎(白日の皎皎たるを晞(のぞ)む)」とあり、
ここでは、曹植「妾薄命」と同様に、「皎皎」と輝くのは「白日」です。
なお、今「晞」を、「睎」に通ずるものとして解釈しましたが、
「明の始めて升る」(『詩経』斉風「東方未明」毛伝)との解釈もあって、
こちらの方が、曹植の「妾薄命」や「洛神賦」により近くなります。

ところで、「皎若」と日光とを結ぶ表現を含む詩歌は、
曹植の「妾薄明」にいう「皎若日出扶桑」以外にもう一例あります。
それは、阮籍「詠懐詩」(其19)冒頭に見える次の辞句です。

  西方有佳人  西方に佳人に有り
  皎若白日光  皎たること白日の光の若し。

この阮籍の詩では、たしかに「皎」は白く輝く太陽です。
けれども、そのような表現で形容されている「佳人」は「西方」にいます。
すると自ずから、「白日」は東方の空に昇ったばかりのそれではなく、
西方の地平線に落ちてゆく太陽が想起させられることになります。
現実の落日は、白く輝いてはいないとはいえ。

「皎若」という措辞が日光と結びつけられている例は、
現存する漢魏晋南北朝期の詩歌を見る限り、曹植と阮籍とのみです。
(もちろん、散逸作品が存在する可能性を視野に入れなくてはなりませんが。)
もしかしたら、阮籍は、曹植「妾薄命」を念頭に置きつつ、
それを敢えて反転させたのかもしれません。

このように、前代の表現を踏まえつつ、
新たな作品世界を作り出しているのが中国古典詩です。
正直なところ、これを読み解くには非常に面倒な作業が必要です。
けれど、これを作る側の人々は自由闊達に古典的世界に遊んでいたのでしょう。
それはちょうど、幾多の音楽を聴き込んだ音楽家が、
即興的に、自由自在に、曲をアレンジして演奏を楽しむのに似ています。

2023年3月27日