古典的作品との再会

おはようございます。

一昨日、曹植における『楚辞』の影響に触れましたが、
一日おいて、こういうことなのかと思い至ったところがあります。

最初は奇想に満ち溢れた言葉の宝庫として、目を見張りつつこれを摂取し、
後半生、自身のおかれた境遇と、屈原がたどった悲劇的人生とを重ねあわせつつ、
ふたたび曹植は、『楚辞』文学に出会ったということなのでしょう。

『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝に、こうあります。

陳思王植字子建、年十歳餘、誦読詩・論及辞賦数十万言、善属文。
 陳思王植、字は子建。
 彼は十歳あまりの年齢で、『詩経』『論語』及び辞賦文学数万言を読んで朗誦し、
 詩文を綴ることに長けていた。

ここにいう「辞賦」とは、『楚辞』及びその系統を引く漢代の韻文を指します。
曹植は、この『楚辞』系文学には子供の頃から慣れ親しんでいたのです。
その当初の摂取は、『詩経』や『論語』と同等の古典的教養としてだったでしょう。
その文学がリアリティをもって感得されたのは、
彼が様々な苦い経験を経て後のことだったのではないでしょうか。

同じことが、たとえば古詩・古楽府についても言えるかもしれません。
曹植は十代の頃から、父曹操が招いた当代第一級の文人たちと宴席を共にしつつ、
漢代以来のこの種の宴席文芸を、日々浴びるように耳にしていたでしょう。
そして、その中で常套的に詠じられる悲哀に満ちた離別を、
自身に固有の文脈において捉えなおし、新たな文学作品を創出した、
それが彼の後半生の「雑詩」や楽府詩だったということではないでしょうか。

困難なのは、少なからぬ曹植作品が制作年代未詳であることです。
そこは、精読を通して推察するしかありません。

2021年7月24日