周の文王と魏の武帝

曹植の「惟漢行」における周文王への言及は、
曹操を念頭において為されたものではないかと昨日述べました。

実は曹操自身も、周文王(西伯昌)のことは意識していたようです。
たとえば、西伯昌から歌い起される自作の「短歌行・周西」(『宋書』楽志三)。
また、建安15年(210)12月の己亥令(『三国志』武帝紀裴松之注に引く『魏武故事』)では、
『論語』泰伯篇にいう「天下を三分して其の二を有す」を引きながら、
西伯昌が大きな勢力を持ちつつも、なお殷王朝を奉戴する立場を取ったことに言及していますし、
最晩年の建安24年(219)には、天の意に従って天下掌握を勧める夏侯惇に対して、
もし天命が自分にあるのなら、それは周文王だと答えています(同武帝紀裴注引『魏氏春秋』)。

その裏側には、もちろん彼ならではの打算があるでしょう。
現在の王朝を擁しつつ、実質的な力を行使する方が統治上有効であるし、
後漢王朝からの禅譲は、我が子の世代にまで繰り下げた方が世論の抵抗が少ないだろう、
といった読みが働いて、曹操は自身を周文王になぞらえたのでしょう。

ただ、そうした曹操の深謀は、息子の曹植にどこまで感受されていたのでしょうか。
曹植が詠ずる父曹操は、かなり理想像に近い君主であるように思われます。
もしかしたらそれは、現在の君主との対比から引き出されたものであったのかもしれません。

それではまた。

2019年12月20日