場を共有する言葉(承前)
こんばんは。
昨日、場を共有していると思しい表現を建安詩の中から拾い上げました。
このことは以前、蘇李詩と関連付けて指摘したことがあります。*1
ただ、その論拠が未だ十分ではないように思えます。
そこで、そのことを書き留めておきます。
蘇李詩の中には、相互に言葉を踏襲しあったかと思われる表現が目立ちます。*2
その顕著な例としては、たとえば次のようなものです。
(漢数字は、『文選』巻29所収李陵「与蘇武三首」、蘇武「詩四首」の何首目かを示す。)
・李陵詩(一)「各在天一隅」、蘇武詩(四)「各在天一方」
・李陵詩(一)「良時不再至」、李陵詩(二)「嘉会難再遇」、蘇武詩(四)「嘉会難両遇」
・李陵詩(一)「仰視浮雲馳」、蘇武詩(四)「仰視浮雲翔」
・李陵詩(二)「行人懐往路」、蘇武詩(三)「征夫懐往路」、蘇武詩(四)「征夫懐遠路」
蘇李詩内部で、このような辞句の相互浸潤が認められるにも拘らず、
これらの表現は、蘇李詩以外の作品ではほとんど認めることができません。*3
(例外は、古詩「行行重行行」(『文選』巻29)に「各在天一涯」があるくらいです。)
このことをひとつの論拠として(他にも二つほどの論拠を合わせて)、
蘇李詩は宴席という場を共有しながら遊戯的に競作されたと先には判断しました。
ただ、今にして思えば、これはかなりの武断です。
『文選』所収の蘇李詩がひとまとまりを為しているとなぜ言えるのか、
そもそも、言葉の相互浸潤が、その場を共有しているということの証左となるか、
蘇李詩内部で孤立しているように見える詩があるが、これをどう見るか、
蘇李詩の中でも相互浸潤の顕著な作品は一部に偏っているが、これをどう見るか、
等々、未だ見極めがついていないことが多々あります。
2021年11月16日
*1 柳川順子『漢代五言詩歌史の研究』(創文社、2013年)p.434、注(18)
*2 柳川順子「漢代五言詩史上に占める蘇李詩の位置」(『中国文化』第67号、2009年)
*3 柳川前掲論文に指摘するとおり、建安詩には、明らかに蘇李詩を用いたと見られる表現が散見する。