変化の兆し

おはようございます。

今週、ある不定期の授業で『易』の話をしました。
言語・社会・健康科学の分野を専攻する院生が一緒に受講する科目なので、
これくらい専門性から離れたものがちょうどよいと思いまして。

机の引き出しの中にしまっていた50本の筮竹(工作用の竹ひご)を取り出して、
座右の書、本田済『易(中国古典選1・2)』(朝日新聞社、1978年)に従って占いました。

忘れているかと思いましたが、指先が動けば、それにつれて頭の中も動き出します。
久しぶりに、若い頃に感激したことが蘇ってきました。

『易』には至るところに面白みが隠されていますが、
私が一番感じ入るのは次のような見方、ものごとの捉え方です。
(迂遠な話をして申し訳ないですが、先に少しばかり説明をしていきます。)

六本ある爻(陰か陽の2種類)を、下から順番に、ある一連の操作を通して導き出すのですが、

・3回の似たような操作で、1回目は9か5、2回目・3回目は8か4の数が出ます。
・9と8を多い数、5と4を少ない数とします。
・3回の操作の結果、2多・1少は少陽、1多・2少は少陰、0多3少は老陽、3多・0少は老陰とします。

興味深いのは、すべて多い数が出たとき、すべて少ない数が出たときの判断です。
多い数(陽の気)が紛紜と立ち上っているのは、陰の状態が極限までいったときであり、
少ない数(陰の気)が満ち満ちているのは、陽の状態が極限までいったときだと見るのですね。
表面上は[陰]であるが、その内には陽へ転ずる気がみっしりと萌している、
表面上は[陽]であるが、その内には陰へ転ずる気が充満している、
この変化の兆しの中にこそ、問いを立てた人への答えは蔵されていると『易』は見ます。

5名の受講生には、コインで実際にやってみてもらいました。
(表を多い数、裏を少ない数と見立てて)

その後、どんな結果が出たか報告してもらって、『易』の当該部分を示しました。
ただ、示されても「?」な感じの文言ばかりだったように思います。
『易』の思想は、適切な「現代語」に翻訳しないと、
意味不明なだけに、人を妙に縛る言葉にもなりかねない、とも思いました。

2020年6月12日