変身する話

こんばんは。

『文選』李善注を読んでいて、とても魅力的な話に行き合いました。
『淮南子』俶真訓に見える次のくだりです。*1
(切り取り方に、少し無理があることをご容赦ください。)

たとえば夢の中で鳥となって空を飛び、夢の中で魚となって淵の底に沈み、
その夢をみているときは、それが夢であるとはわからず、
目覚めてからそれが夢であったとわかるのだ。
今まさに大いなる覚醒があって、
その後に今のこのことが大いなる夢だとわかろうというものだ。

万物生成の始め、自分が未生のときは、どうして生が楽しいとわかっただろうか。
今自分は未だ死んではいない、それならまたどうして死が楽しくないとわかるだろうか。
昔、公牛哀は身体の転化する病にかかって、七日で虎と化した。
その兄が戸を閉じて中に入り、これを覗いたところ、虎は襲い掛かって彼を殺した。
だから、表皮の文様が獣となり、爪や牙が獣のそれに変化して、
志向が心の臓と共に変易し、精神が肉体とともに形を変えてしまって、
その虎であるときは、自分がかつて人であったことがわからず、
その人であるときは、自分がしばし虎となっていたことがわからないのである。

この公牛哀の故事は、『荘子』斉物論篇に見える胡蝶の夢と同趣旨です。
そればかりか、その前の記述にも『荘子』とほぼ同じフレーズが散見します。
前漢の『淮南子』が、先秦時代の『荘子』を踏まえたことは間違いないでしょう。*2

他方、『淮南子』に見える公牛哀の故事は、
後漢の王充『論衡』の無形、奇怪、遭虎、論死、死偽の各篇に引用されています。*3
特段の説明もなく言及されることから、当時広く知られた故事だったように看取されます。
(あるいは、王充によほど気に入られた話だったのかもしれません。)

現実世界とその外と、彼我の境界を踏み越えていく思想。
覚醒した目で、この世での出来事はすべて夢なのだと言い切る哲学。
こんなものの見方もあるのだと、『淮南子』を学生たちに紹介しようと思いました。
(類似する内容の書物は他にもありますが、出会い頭のご縁ということで)

ところで、『文選』巻29の李善注は、
曹植「朔風詩」の一句「四気代謝」に対する注釈として、
前掲『淮南子』の文章に続く「二者代謝舛馳(二者は代謝して舛馳す)」を挙げています。
ここにいう「二者」は、変化して入れ替わる人と虎とを指しているので、
用例としては、あまりぴったりとしないように思うのですが、いかがでしょうか。
もしこう質問したら、李善はどのように返答されるでしょうか。

2021年2月24日

*1 原文は以下のとおり。
譬若夢為鳥而飛於天、夢為魚而没於淵、方其夢也、不知其夢也、覚而後知其夢也。今将有大覚、然後知今此之為大夢也。始吾未生之時、焉知生之楽也。今吾未死、又焉知死之不楽也。昔公牛哀転病也、七日化為虎。其兄掩戸而入覘之、則虎搏而殺之。是故文章成獣、爪牙移易、志与心変、神与形化、方其為虎也、不知其嘗為人也、方其為人也、不知其且為虎也。
*2 何寧『淮南子集釈』(中華書局、1998年)を参照。
*3 この故事が『論衡』に引用されていることは、前掲『淮南子集釈』により知り得た。引用箇所は、中國哲學書電子化計劃https://ctext.org/pre-qin-and-han/zh を手引きに確認した。