外部の視点

曹植作品の全体像を把握したくて、
毎日少しずつ、丁晏『曹集詮評』のテキスト入力を続けています。
今更の作業のように感じられるかもしれませんが、
(索引もあるし、ネット上には様々なテキストデータがありますから。)

特有の緩やかなスピード感があって、思いがけない拾い物をすることもあります。
それはまた、ノートに書き写して熟読することとも異なるリズムです。

その中には、拾って憮然としてしまう言葉ももちろんあります。
巻八所収「黄初五年令」にこうありました。

諺曰、人心不同、若其面焉。*
唯女子与小人為難養也。近之則不遜、遠之則有怨。
ことわざに、人の心は同じではない、その顔が同じでないのと同様だ、とある。
ただ、女子と小人とは養い難いものだ。近づければ無遠慮となり、遠ざければ怨みを持つ。

「諺」はともかくも、これに続くフレーズは何でしょうか。
曹植自身がこんなことを言ったのかと驚き、調べてみるとそうではありませんでした。

『論語』陽貨篇に、ほぼそのまま次のようにあります。

子曰、唯女子与小人為難養也。近之則不孫、遠之則怨。
子曰く、唯だ女子と小人とは養ひ難しと為す。之を近づくれば則ち不孫、之を遠ざくれば則ち怨む。

曹植の言に驚き、遡って孔子にたどり着いて、更にしょんぼりの度を増しました。

男子には、小人もいれば聖人も、大人も、中人もいるのに、
「女子」は一括りにして「小人」と同じ扱いです。

儒教社会には、一方で、女性の立場がめっぽう強いという実情もありますが、
それだって、男性を立てるということにおける立派さであって、
自由にのびのびと振る舞っていいという意味ではない。
(そういう点では男性も同じですが、それでも自由度は大きいでしょう。)

かつてはこんな時代があったと理解するほかないのですが、
このような言葉に遭遇するたびに、また門前払いされてしまったと感じます。

ですが、外部の人間だからこそよく見えるということがあります。
現代人には、前近代の文化の特徴を捉えることができる、
庶民出身であるからこそ、上流社会に特有の文化的構造が見える、
ある文明の特異性は、その周辺、あるいはその外にいる人間にこそ鮮明に映る、
だったら、男性優位の前近代中国の特異性は、現代の女性にこそよく見えるでしょう。

そう思うことは自由です。

それではまた。

2019年12月23日

*『春秋左氏伝』襄公三十一年に「子産曰、人心之不同、如其面焉(子産曰く、人心の同じからざるは、其の面の如し)」と。