妄想改め仮説として

おはようございます。

先日来の検討を通して、
曹植の「惟漢行」は、明帝を戒める趣旨で作られたという見通しが立ちました。

では、なぜそのような内容を、「薤露」という楽曲に乗せる必要があったのでしょうか。

曹操「薤露・惟漢二十二世」が保持する葬送歌としての要素を、
曹植「惟漢行」は持っていません。
「薤露」が本来的に持つこの要素を加えて深読みすればするほど、
曹植「惟漢行」の読みは破綻してしまう、そのことは先にも述べたとおりです

前述のような内容を歌に乗せて表現しようとするならば、
別に「薤露」でなくても、様々にある歌曲のひとつを選べばよかったはずです。

そこで想起されるのが、
曹植には、「薤露」に基づく楽府詩が二篇あったということです。
もう一篇の「薤露行」は、曹操の「薤露」と同じ句数を持ち、
そこに開陳されているのは、これもまた葬送歌とは関わりのない、現実参加への意欲です。

「薤露行」は、古直が指摘する「与楊徳祖書」との近似性により、
楊修(175―219)が存命中の、後漢建安年間の作だと見るのが妥当でしょう。
もしかしたら、宴の席で、曹操の「薤露」と同じ機会に披露された可能性もあります。
当時において、「薤露」という楽曲は宴席を彩る芸能のひとつとして行われていましたから。

曹植「薤露行」は、彼が非常に幸福であった時にわが志を詠じたものです。
それを思い起こし、再び自らの志を表明しようとしたのが「惟漢行」ではなかったでしょうか。
だから、同じ楽曲でなければならなかったのだと思うのです。
曹植にとって、「惟漢行」は、若き時代の作「薤露行」の続編であったということです。
亡き父曹操に向けて、現時点における自らの志を言明するという意味もあったかもしれません。

明帝が即位して、新しい時代が到来した。
これからは、自らの立場にふさわしく、新皇帝を補佐する役割を果たしていこう。
そう彼は思い立って「惟漢行」を作ったのではないでしょうか。
ですが、それが王朝の不興を買ったであろうことは昨日述べたところです。

2020年7月24日