宮廷歌曲の大衆化か?

魏王朝で演奏された宮廷歌曲群「相和」の中に、
武帝曹操の歌辞「薤露」があります。

これは、前漢以来、宮中で歌い継がれてきたと推定される歌曲「薤露」に、
魏の武帝、曹操が新たに歌辞を付けて歌わせたものです。

「薤露」はもともと「蒿里」とあわせて一曲で、
前漢王朝の草創期、自殺を余儀なくされた田横という人物を悼んで、
彼の門人が歌ったのがその初めだと言い伝えられています。
それが、前漢武帝期に二つに分割され、
「薤露」は王公貴人の葬送歌、「蒿里」は士大夫・庶人の葬送歌となりました。

曹操による歌辞も、こうした歴史的経緯を踏まえ、
「薤露」は漢王室を、「蒿里」は漢末の群雄を追悼するものです。
すると、この二曲は魏王朝にとって非常に重要な意味をもつものだったでしょう。
(以上については、著書4のp.326―328、学術論文19をご参照いただければ幸いです。)

ところが、続く西晋時代の傅玄(217―278)に、
曹操(155―220)の「薤露」に基づく「惟漢行」という楽府詩があります。
(この楽府題は、「惟漢二十二世」という句に始まる曹操の「薤露」を踏まえたものであることを示しています。)

そして、傅玄の「惟漢行」は、項羽と劉邦の「鴻門の会」を題材としており、
(「鴻門の会」は、当時の宴席で楽しまれていた出し物のひとつであったと推定できます。)
内容として、曹操の「薤露」を踏襲する挽歌ではありません。

こうしたことから、次のような推論が可能だと私は考えます。

まず、西晋当時、まだ「相和・薤露」のメロディは生きていたということ。
だからこそ、傅玄は替え歌を作ることができたと判断されます。

更に、魏王朝の滅亡とともに、宮廷歌曲「薤露」の威光も失われたということ。
そうでなければ、先述のような内容の替え歌が許されるはずもないし、
そもそも一介の文人が気楽に替え歌を作るということも不可能でしょう。
(以上のことは、口頭発表17の一部で拙く述べましたが、文章化はこれからです。)

昨日話題にした『楽府詩集』には、
なるほど「薤露」「蒿里」は、ともに魏楽所奏と記されています。
他方、それ以外の「相和」歌辞には、魏晋楽所奏とされているものも少なくありません。
この違いは何に拠るのか、相変わらず謎のままです。

それではまた。

2019年7月23日