少し弱音を吐きます。
こんばんは。
『文選』所収作品を李善注に従って読んでいると、
典拠となった原典を探索するうちに、はっとするような言葉にめぐり合うことがあります。
先週は、『論語』衛霊公篇にいう次のようなフレーズに出会いました。
子曰、賜也、女以予為多学而識之者与。対曰、然。非与。曰、非也。予一以貫之。
先生が言った。賜(子貢)や、おまえは私のことを多く学んで覚えている人間だと思うか。
子貢は答えた。はい。違いますか。
先生は言った。違うんだよ。私はひとつのことでもって貫いている。
多くの知識をお持ちの先生だが、それらには通底するテーマがあるのだ、
と知った子貢は、その後どう変化したでしょう。(あるいは変わらなかったでしょうか。)
子貢には、目から鼻へ抜けるような賢さを持つ人というイメージがありますが、
そんな彼だからこそ、孔子はこう語って聞かせたのかもしれません。
それはさておき、「一以て之を貫く」、私はこの言葉に非常に勇気づけられました。
この四半世紀ほど、時代の変化に応じて教育内容も変えるよう強く求められ続けてきましたが、
現代的な問題意識は、自身が今を生きている以上、当然持っていることです。
その上で、古典や文学の変わらぬ存在意義は何か、ひたすらに考え続けているのです。
ですが、時流に乗った言葉が行き交う中、必要とされないことはつらいです。
(孔子は苦労の連続でしたが、同志と呼びうる愛弟子たちがいたのはたいへんな幸福だと思います。)
2020年11月30日