常識ですが。
こんばんは。
曹植「贈白馬王彪」詩が成る発端となった出来事として、
曹植の兄曹彰が、朝見のために上った洛陽で急死したという事件があります。
この事件に関して、『世説新語』尤悔篇は、次のような内容の逸話を記しています。
文帝曹丕は、同母弟である曹彰の勇猛さを妬み、
卞太后(曹丕らの母)の部屋で囲碁に興じつつ、巧妙に毒を仕込んだ棗の実で彼を殺した。
曹丕は次に曹植を殺害しようとしたが、卞太后がこれを阻止した。
ここにいう、曹丕が曹彰を毒殺したとは事実なのでしょうか。
『世説新語』の劉孝標注には、そうしたことを記す文献は引かれていません。
引かれているのは、まず曹彰の武勇を記す『魏略』、
次に引く『魏氏春秋』は、曹彰が亡くなった経緯について次のように記しています。
曹彰は、曹操が崩御した際、璽綬(天子の印と組紐)のありかを尋ね、異心ありとされた。
そのため、洛陽ですぐには朝見が認められず、その憤懣と憂悶のために急死した、と。
そして、三件目の引用文献は、『魏志』(『三国志』巻29)方技伝から、
曹植を処刑しようとした曹丕が、卞太后に阻止される、
と予言した夢占い師、周宣の逸話です。
『世説新語』が成ったのは、曹氏兄弟の生きていた頃から二百年余り後の劉宋の時代で、
劉孝標注の成立は、その本文の成立から更に数十年ほど後のことです。
すると、曹丕の同母弟毒殺は、本人の死後二百年ほどの間に作られた風説でしょうか。
いかにも曹丕がやりそうなこととして話に尾ひれがついて。
『世説新語』本文からそれほど隔たっていない時代に成った劉孝標注が引く文献は、
いずれも『三国志』本文、及びその裴松之注に引くところと一致します。
そして、先述の毒殺の一件はそのどこにも見えていないのです。
弟たちに対する曹丕の仕打ちがいくら酷かったとはいえ、
人物像の悪いイメージを、根拠なく増幅させることは自戒しなければなりません。
(歴史書には記せない事実が、文字の世界から葬り去られた可能性が無ではないにしろ)
うわさ話を鵜呑みにして誰かを決めつけてはならない。常識ですが。
2020年4月30日