建安年間の哀辞

『曹集詮評』巻10に「金瓠哀辞」に続いて収録されている「行女哀辞」は、
建安文人の徐幹や劉楨らに、同題で作られた作品があります。

梁の劉勰『文心雕龍』哀弔篇にこうあります。

  建安哀辞、惟偉長差善、行女一篇、時有惻怛。
   建安の哀辞は、惟だ偉長のみ差(やや)善く、「行女」の一篇、時に惻怛有り。

さかのぼって、晋の摯虞『文章流別論』(『太平御覧』巻596)にこうあります。

  哀辞者、誄之流也。
  崔瑗・蘇順・馬融等為之。
  率以施於童殤夭折、不以寿終者。
  建安中、文帝・臨淄侯各失稚子、命徐幹・劉楨等為之哀辞。
  哀辞之体、以哀痛為主、縁以歎息之辞。
   哀辞なる者は、誄の流なり。
   崔瑗・蘇順・馬融等これを為(つく)る。
   率(おほむ)ね以て童殤夭折に施し、寿もて終はる者には以(もち)ゐず。
   建安中、文帝・臨淄侯 各〻稚子を失ひ、徐幹・劉楨等に命じて之が哀辞を為らしむ。
   哀辞の体は、哀痛を以て主と為し、縁るに歎息の辞を以てす。

昨日、「金瓠哀辞」の成立年代について、
先行研究ではみなそれを建安年間としていると述べましたが、
その論拠は、前掲の文献を踏まえながら、次のとおり示されています。

曹植の「行女哀辞」は、徐幹と同じ時に作られたもので、
徐幹は建安22年(217)に没している。
そして曹植は、「行女哀辞」を作るより前に長女を亡くしているはずだ。
ゆえに、長女の夭逝を嘆く「金瓠哀辞」は、建安年間の作である。

なお、「行女」という語は、後世、辞書的には次女と解されていますが、
意外なことに、この語の用例は漢魏晋南北朝時代では稀です。
そこがまだ釈然としないところです。

2023年4月26日