後漢末における五言詩の位置
こんばんは。
昨日紹介した、趙壹「刺世疾邪賦」に見える二首の五言詩歌は、
鄭振鐸『中国俗文学史』に、その文体が「最も口語に近い」ものと評されています。*1
もともと民間歌謡と同類のものだった五言詩だが、
知識人社会でも広く行われるようになった漢末に至っても、
それはなお民歌的作風を留め、濃厚な口語的成分を多分に含んでいた、
その一例として、趙壹の歌が上述のようなコメントと共に紹介されているのです。
ただ、この五言詩歌が口語を用いた民歌的作風だと言い切れるか、
自分としては判断を保留にしておきたく思います。
というのは、この作品には古典籍に出自を持つ語句が散見するからです。*2
たとえば、「秦客」の作った詩の冒頭、
「河清不可俟、人命不可延(河清は俟つ可からず、人命は延ばす可からず)」は、
『春秋左氏伝』襄公八年に引く周の詩にいう、
「俟河之清、人寿幾何(河の清むを俟つに、人寿は幾何ぞ)」を踏まえています。
また、「魯生」がこれを継いで作った歌の第二句、
「欬唾自成珠(欬唾は自ら珠を成す)」は、
『荘子』秋水篇にいう、
「子不見夫唾者乎。噴則大者如珠、小者如霧。
(子は見ずや夫の唾なる者を。噴すれば則ち大なる者は珠の如く、小なる者は霧の如し)」
を、その本来の意味内容とは切り離して、文字面のみ遊戯的に用いていますし、
続く「被褐懐金玉(褐を被て金玉を懐く)」は、
『老子』第七十章にいう「聖人被褐懐玉(聖人は褐を被て玉を懐く)」を踏まえています。
鄭振鐸は「俗文学」という新たな視座で中国文学史を捉えなおそうとして、
その独自の文脈の中に本作品を位置付けたのでしょう。
私としては、立派な教養人である趙壹が、
その心情を吐露する際に五言詩型を取ったのはなぜか、興味を惹かれます。
後漢末当時、五言詩はまだ、正統的な文学ジャンルとしては認められていませんでしたが、
彼は、漢代の正統派文学である賦作品の中に、この五言詩型を組み入れています。
なぜ四言詩ではなくて、また楚辞系の詩歌でもなくて五言詩なのか。
そこから、後漢末における五言詩の位置を、推し測ることができるように思います。
2021年8月3日
*1 鄭振鐸『中国俗文学史』(商務印書館、2010年。原本初版は1938年)p.43を参照。
*2 吉川忠夫訓注『後漢書』第九冊・列伝七(岩波書店、2005年)p.310~311を参照。