後継者選びの「大義」
再び重ねて昨日の続きです。
曹操の後継者問題をめぐる緊迫状況の中で、
衛臻が、曹植を推す丁儀らの誘いかけを拒否したのは「大義」からでした。
「大義」とは、崔琰のいう「春秋の義」(『三国志』巻12「崔琰伝」)と同義でしょう。
『春秋公羊伝』隠公元年に、
立適(嫡)、以長不以賢。
正夫人の子を後継者に立てる場合は、年齢に拠って、賢明さには拠らない。
立子、以貴不以長。
すべての子から選んで立てる場合は、身分に拠って、年齢には拠らない。
とあるのがそれです。
この考え方に依拠して曹丕を推した人物として、前掲の衛臻、崔琰のほか、
賈詡(巻10)、毛玠(巻12)、桓階(巻22)らがいます。
いずれも第一級の知識人たちです。
そして、この大義は、他ならぬ曹植自身も意識していた。
巻19「任城王彰伝」裴松之注引『魏略』に記す、次の逸話からそう判断されます。
急病に倒れた曹操に呼び寄せられた曹彰(曹丕の弟、曹植の兄)が、
曹植に「先王が私を召し寄せたのは、お前を立てようとしたためだ」と言うと、
曹植は「だめだ。袁氏兄弟の末路を見ておられないのか」と返した。
袁氏兄弟とは、袁紹の跡を継いだ末子の袁尚と、これと争った長子の袁譚で、
彼らは兄弟争いをしているうちに、曹操軍に征伐されました。
なお、同様な事例として、荊州に割拠した劉表の後継者問題もあって、
前掲の賈詡は、この二つのなりゆきに言及しつつ、それとなく曹丕を推しています。
前掲『魏略』は、以前にも述べたように、かなり信頼性の高い資料です。
こうしてみると、多くの先行研究がいうように、
曹植自身は、父の後継者となる意志を持っていなかったと見られます。
それではまた。
2019年9月12日