徐幹における「室思」詩の位置

徐幹は、たしかに『中論』という政治思想の書を著しましたが、
一方で、「室思」といういわゆる閨怨詩を詠じていることもまた事実です。

では、徐幹の中で「室思」詩はどのような位置を占めているのでしょうか。

徐幹が曹魏政権に仕えたことは、
『三国志(魏志)』巻21・王粲伝に、
「幹は司空軍謀祭酒掾の属、五官将文学と為る」と記されています。

曹操が司空となったのは建安元年(196)、
曹丕が五官中郎将となったのは建安16年(211)です。

徐幹が曹操に召されたことに関して、
無名氏による「徐幹『中論』序」にはこう記されています。

会上公撥乱、王路初闢、遂力疾応命、従戍征行。
 会(たまたま)上公 乱を撥(をさ)め、王路初めて闢(ひら)けば、
 遂に疾を力(つと)めて命に応じ、戍に従ひて征行す。

その具体的な時期を、建安10年(205)とする先行研究もありますが、*1
その当否の判断はひとまず置いておくこととします。

さて、前掲『中論』序によると、*2
曹操の司空軍謀祭酒掾となった後の徐幹は、
「載(とし)を歴ること五六にして、疾の稍(やや)沈篤となれば、王事に堪へず、
身を窮巷に潜め、志を頤(やしな)ひ真を保ち、淡泊無為にして、惟だ正道を存するのみ」でした。

そして、『中論』執筆に専念するようになった経緯についてこう記しています。

見辞人美麗之文並時而作、
曾無闡弘大義、敷散道教、上求聖人之中、下救流俗之昏者、
故廃詩賦頌銘賛之文、著『中論』之書二十篇。

辞人の美麗の文 時を並べて作らるるも、
曾て 大義を闡弘し、道教を敷散し、
上は聖人の中を求め、下は流俗の昏(くら)き者を救ふこと無きを見て、
故に詩賦頌銘賛の文を廃して、『中論』の書二十篇を著す。

この記述を裏側から読むならば、
ほかならぬ徐幹自身も「詩賦頌銘賛」を作っていたということになります。
それを止めて『中論』の著述に専念するようになったのです。

徐幹はかつて「辞人」が「美麗の文」を競作するような場に身を置いていました。
そのような場で作られたのが「室思」詩だったのでしょうか。

本質的に隠者的な生き方を志向する人物であっても、
置かれた境遇によっては、一時サロン文芸の雰囲気に染まることはあり得ます。

それとも、君臣が集う華やかなサロン文芸の場を去ってから、
主君への断ち切れぬ思いを、閨怨に託して詠じたのが「室思」であったのでしょうか。

徐幹は、たとえば、その『中論』爵禄篇の中で、
爵位や俸禄が適正に付与されることの重要性を説いているように、
本質的には儒家的政治思想の持主であったと見られます。
そんな人物がもし主君の恩を一途に追慕したとしても不思議ではありません。

2026年3月20日

*1 曹道衡・沈玉成『中国文学家大辞典:先秦漢魏晋南北朝巻』(中華書局、1996年)p.350を参照。
*2 孫啓治『中論解詁』(中華書局、2014年)附録一所収。訓み下しは、池田秀三「徐幹中論校注(上)」(『京都大学文学部研究紀要』23、1984年)を参考にした。