徐幹の足跡
曹植の「贈徐幹」(『文選』巻24)は、よくわからない詩です。
逐語的に訳せたとしても、それで何を言おうとしているのかがわからない。
詩が作られた背景がわからないことにはどうしようもない、という句が多いのです。
そこで、まず徐幹の事跡を『中国文学家大辞典(先秦漢魏晋南北朝巻)』で概観しました。*1
①霊帝の末年(189)頃、年は二十歳前、仕官せず勉学に励む。
②建安10年(205)、袁紹を平らげた曹操のもとで司空軍謀祭酒掾属を務める。
③13年(208)、赤壁の戦いに従軍し、「序征賦」を作る。
④16年(211)、曹丕のもとで五官将文学を務める。馬超征伐に従って「西征賦」を作る。
⑤鄴への帰還後(あるいはかつて)、曹植のもとで文学を務める。
⑥建安18年(213)前後、病がひどくなったため退居して『中論』執筆に専心する。
⑦建安23年(218)2月、疫病のために、48歳で卒す。
①⑥⑦については、無名氏による「徐幹『中論』序」、*2
②④は、『三国志』巻21「王粲伝」によって確認することができますが、
⑤は、『三国志』巻16「鄭渾伝」裴松之注引『晋陽秋』、及び『晋書』巻44「鄭袤伝」によって、
曹植が臨菑侯となった建安19年(214)以降と推定(修正)すべきでしょう。
また、⑥については、216~217年頃と比定できるかもしれません。
というのは、「中論序」には、
会上公撥乱、王路始闢、遂力疾応命、従戌征行。歴載五六、疾稍沈篤、不堪王事、潜身窮巷、……
ちょうど魏公(曹操)は混乱を治め、王道がやっと開かれてきたところだったので、
かくして(徐幹は)病を押して従軍したのであった。
五六年の歳月を経て、病が次第にひどくなり、勤務に耐えられなくなって、
田舎暮らしに身を潜めることとなった。……
と記されているばかりであって、「歴載五六」の起点は示されていないからです。
そして、もしその起点を前掲の馬超征伐(211)に取るならば、退隠は216~217年頃となります。
つまり、214年から臨菑侯曹植のもとで文学を3年ほど務めた後に退隠した、と。
一応このように徐幹の閲歴を捉えた上で、「贈徐幹」詩を振り返ってみると、
その成立時期は、臨菑侯曹植が父曹操の寵愛を失った頃、
徐幹が隠逸的生活に入った晩年期と見るのが最も妥当であるようです。
岩波文庫の『文選 詩篇(三)』(2018年7月)p.81も同様な推定ですが、
ただ、詩の解釈については少し疑問を感じる点があります。
もう少し考えてみます。
それではまた。
2019年10月29日
*1 曹道衡・沈玉成編撰『中国文学家大辞典』(中華書局、1996年)p.349~350を参照。
*2 孫啓治『中論解詁』(中華書局、2014年)p.393~395を参照。