心中の親友と語らう
昨日言及した阮籍「詠懐詩」其十七、全文は次のとおりです。
独坐空堂上 ひとり、がらんどうの座敷に座る。
誰可与歓者 ともに楽しみを分かち合える者など誰がいよう。
出門臨永路 門を出て、どこまでも続く道に臨めば、
不見行車馬 行き交う車馬は見当たらない。
登高望九州 高台に登って中国全土を見渡せば、
悠悠分曠野 九つに分たれた原野が果てしなく四方に広がっている。
孤鳥西北飛 見れば、一羽のはぐれ鳥が西北に飛んでゆく。
離獣東南下 群れから離れた獣が東南に下ってゆく。
日暮思親友 日が暮れて、私は親友を思う。
晤言用自写 心中の彼と語らって、自分で自分の憂いを晴らすのだ。
(以上の通釈は、こちらの小文で示したものを多く転用しています。)
ここに詠じられた「孤鳥」「離獣」は、詩を詠ずる者の目に映じた鳥獣の姿です。
ただそれは、詩を詠ずる者の心情がそのようであったからこそ、
鳥獣たちの姿も自分と同じような様子に見えた、あるいは、
そのような様子の鳥獣を描いて詩に登場させた、ということでしょう。
阮籍の描く「孤」「離」と、曹植や陸機のそれとは何が違うのでしょうか。
曹植「九愁賦」には「失群」という語が示すとおり、もといた群れが意識されています。
陸機「贈従兄車騎」には「故薮」「旧林」とあって、遠く離れた故郷への思いを詠じています。
これは、この詩が同郷の従兄に贈られたものであることに大きく因っているでしょう。
ところが、阮籍「詠懐詩」は、もといた共同体も故郷も詠じません。*
そして最後に、心の中にいる「親友」と語り合い、憂いを払いのけようと詠ずるのです。
この「親友」は、私たちすべてに開かれた回路であるように私は感じます。
その心の底を深く降りていったならば阮籍と「晤言」できる、
阮籍のいう「親友」とは自分でもあるのではないか、
そんな風に読者に思わせる詩。
それが「文学」かもしれないと私は思います。
それではまた。
2019年9月27日
*吉川幸次郎『阮籍の「詠懐詩」について 附・阮籍伝』(岩波文庫、1981年)をご覧になってください。また異なる視点からの論が展開されています。