恩人を祭った曹操

昨日の補足です。

曹丕に認められなかった曹植「請祭先王表」、
曹植が願ったのは、あくまでも先の魏王曹操に対する孝敬と親愛の情に発する祭祀であって、
国や家の宗廟祭祀を執り行いたいと言っているわけではないでしょう。

個人的な心情から物故者を祭る例はいくらでもあります。

たとえば、建安7年(202)、曹操は橋玄を睢陽に祭りました。(『三国志』巻1「武帝紀」)
橋玄はかつて、若き無名の曹操の才能をいち早く見抜いた人物です。(同裴松之注に引く『魏書』)
この恩人に報いるべく、曹操は使者を派遣し、大牢の犠牲を捧げて祀ったのです。
そして、自ら祀文を作り、橋玄との思い出と感謝の念を綴っています。(同裴注引『褒賞令』)

この他、曹操は建安2年(197)、張繍との戦いで没した将士たちを淯水のほとりで祀っています。
(同上『魏書』)

また、曹操は、建安21年(216)、宗廟に漢中征伐の報告をする際、
伝統的な作法にこだわる必要はないとの趣旨の令を発布しています。(同上『魏書』)

そのような父に衷心から共鳴する曹植であればこそ、上述の願い出も為されたに違いありません。

なお、曹丕が皇帝として先の武帝を祭ったのは、黄初2年(221)6月のことでした。
都の宗廟が未完成であったため、洛陽の建始殿で、家人の礼のごとく祭ったと記録されています。*
(同巻2「文帝紀」裴松之注に引く『魏書』)

それではまた。

2020年1月16日

*魏王朝の宗廟が始めて成ったのは、『三国志』巻3「明帝紀」に、太和3年(229)11月のことと記す。なお、同裴松之注によると、天子としての七廟の制度(『礼記』王制篇)が定められたのは、更にその後の景初元年(237)であった。(2020.01.17追記)