感傷的追想
こんばんは。
建安文人たちに対する評論を載せる曹植「与楊徳祖書」(『文選』巻42)は、
曹丕「典論論文」(『文選』巻52)に先立つものであり、
また両者は内容面において何らかの関連性を持つもののようだ、
とは集英社・全釈漢文大系『文選(文章編)五』p.625に指摘するところです。
ところで、前掲の曹植「与楊徳祖書」に対する返信として、
楊徳祖すなわち楊修の「答臨淄侯牋」(『文選』巻40)がありますが、
その中に、次のような句が見えています。
「不忘経国之大美、流千載之英声(経国の大美を忘れず、千載の英声を流す)」と。
このフレーズは、曹丕「典論論文」にいう、
「蓋文章経国之大業、不朽之盛事(蓋し文章は経国の大業、不朽の盛事なり)」を想起させます。
曹丕は、曹植と楊修との往復書簡を読んでいて、これを踏まえた可能性があります。
さて、楊修の書簡と曹丕「典論論文」とが相関係する可能性ありとは、
自分が学生時代に用いていた胡刻本の李善注『文選』に書いてあったメモです。
ノートに本文を書写することもせず、
不埒にも授業中に聞き及んだことを直接書き込んでいるメモが、
今の自分にとっては貴重なコメントです。
思えば当時、学生たち(特に成績優秀者)は、
国文学、英文学、心理学、社会学といった研究室に多く集まる傾向があって、
中国文学や中國哲学は少ない人数で推移していました。
(今と同じような状況は、すでに40年くらい前からあったということです。)
けれども、そんな少数派であることにひけめを感じるどころか、
自身の専門に自信と誇りを持っていました。
今のように、学生をお客さんと見なし、
来客数でその存在価値を測るような風潮は、
少なくとも当時の大学にはこれっぽっちもなかった。
これは、先生方ががっちりと私たちを守ってくれたおかげです。
ですが今、自分たちはそうした風潮から何者かを守ることができていません。
では、その何者かという部分には何が代入されるのでしょう。
学生や、地域の人々といった言葉を入れることは到底できないように思います。
自分たちはいったい何を一生懸命守ろうとしているのかと心細い昨今です。
どのような経緯でこんなことになってしまったのか。
2020年10月2日