拙論への追補(2)

昨日、大学院の授業で曹植の鼙舞歌「聖皇篇」を読んでいたところ
交換留学生から次のような質問を受けました。

曹植のこの楽府詩は、章和二年中に起こった出来事を踏まえているということだが、
その20句目「皇母懐苦辛」、これは後漢時代のことを言っているのか。

言われてみればたしかに、
「皇母」である竇太后は、和帝を生んだ梁貴人を死に追いやり、彼の育ての母となった人です。
そして、和帝の後見役となった竇太后は、和帝の父である章帝の妻であって、
各国へ赴くことになった諸王とは、直接的な強いつながりがあるわけではありません。
彼女ら一派はむしろ、諸王が都にいてはやりにくい、と感じていた可能性もあるでしょう。
そうした「皇母」が「苦辛を懐く」とは、やや不自然です。
(もちろん、一般論としては成り立ちますが。)

他方、これが魏王朝のことを暗示しているとするならば、「皇母」は卞皇后です。
彼女は、諸王を封土に赴かせる文帝の母であり、諸王の母でもあるので、
このことに対して「苦辛を懐く」のは当然でしょう。

曹植の「鼙舞歌」五篇は、すでに拙論で論じたとおり、
漢代鼙舞歌辞という枠組みに依拠して作られたものではありますが、
その中には、直接的には魏王朝を指していると思われる表現がまだ埋もれていそうです。

それではまた。

2020年1月9日