授業雑感
こんばんは。
先週の授業で柳宗元の「送薛存義之任序」を取り上げたことはこちらでも述べましたが、
本日の授業で、儒家思想の何たるかを学んだ前回の授業内容を振り返りました。
学生たちから提示された、儒家思想への質問疑問に応答していく中で、
現代人の基本的心性が浮かび上がってきたように思います。
まず、現代の若者である学生たちの多くが、
良いことをしても見返りがなければ意味がないと見ている、
また、不遇はすなわち不幸だと考えている、ということがわかりました。
以前にも述べましたが、その作品が後世にまで残るような人物は、多くが不遇です。
けれども、彼らが不幸であったとは必ずしも言えないように思うのです。
なぜそのように感じるのか、少し考えてみました。
ひとつには、彼らは自身の生き方や作品に誇りを持っていたでしょう。
自身への敬意、本当の意味でのプライドです。
(現代日本では、この言葉はマイナスのイメージを伴いますが。)
そして、彼らには、不遇な自己を投影させ得る先人たちがいた、
言い換えれば、不遇な自身を昇華させ得る物語が存在したということです。
(たとえば、讒言を受けて、汨羅の潭に身を投じた忠臣、屈原など)
ひるがえって今、かりに儒家的な考え方から行動したとしても、
おそらく、無関心、あるいは冷笑めいた憐れみをかけられるのが落ちかもしれません。
現代人には、儒家を理想とするような思想はもはや存在しないのですから、
それは当然のことなのでしょう。
現代に、儒家思想をそのまま復活させるべきだとは思えません。
それは、時代的背景が異なるのですから無理筋のことです。
けれども、二千年以上も継承されてきたそれを捨て去るのはあまりにも惜しい。
たとえば、次のような言葉が惜しげもなく転がっているのですから。
衆悪之必察焉、衆好之必察焉。(『論語』衛霊公篇)
衆人がこれを嫌っていても、必ず(自分の耳目で)精察する。
衆人がこれを好んでいても、必ず(自分の耳目で)精察する。
これなど、現代にこそ響きわたる言葉だと思います。
この二千数百年前の人の言葉が記され、読み継がれて今に伝わる、
ということは、これは人間にとって普遍的真実だと見てよいのではないでしょうか。
2021年11月9日