推測の妥当性を決するもの
こんばんは。
推測と憶測とは似て非なるものだ、と昨日述べました。
では、その推測の妥当性は、誰がどのようにして判断するのでしょうか。
そのジャッジを経験豊かな第三者に求めること。
これは、投稿した論文に与えられる査読コメントがそれでしょう。
ですが、査読者のすべてが真に妥当な批評をしてくださるとは限りません。
(的確かつ親切な査読コメントをいただけたなら、それはたいへんな幸運です。)
こんなことを言うのは非常に傲慢なことかもしれませんが、
本当に耳を傾けるべき第三者の声は、自分でそれを聴き分ける必要があると思います。
そうするのでないと、進むべき方向性が見えなくなってしまいます。
私は、まず自分の中に第三者の目を持つことだと思っています。
とはいえ、その内なる第三者だって、完全に自分から独立した存在ではありませんから、
いつ、無自覚的に、自分に都合のよい判断をしてしまうとも知れません。
人の脳は、自分が見たいものを見るようにできていると聞きます。
ただ、健康な精神は自身を疑うことができる、
病んでいる人は、自身にその病識がないのだとも聞きます。
自説の作り上げた世界の中に安住して、それ以外が見えなくなっている研究者。
それは想像するだに恐ろしい、閉塞感で苦しくなるような存在です。
そうならないようにということは常に自戒したいです。
2021年2月20日