敢えての難解さか?

こんばんは。

本日、曹植作品訳注稿「04-15 朔風」を公開しました。
ただし、これから更に修正しなくてはならない箇所が出てきそうです。
というのは、とにかく何を言っているのかよく分からないところがあるのです。
たとえば、ちょうど中間あたりに位置している次のような表現。

子好芳草  「子」は香しい芳草を好んでいた。
豈忘爾貽  「爾(なんぢ)」にそれを贈ることを、私はどうして忘れるものか。
繁華将茂  けれど、これから豊かに茂って花開こうかというときに、
秋霜悴之  秋の霜がこれを損なってしまった。」
君不垂眷  「君」がこちらを顧みてくださらなくても、
豈云其誠  どうしてその真心をひるがえしたりしようか。
秋蘭可喩  秋蘭(ふじばかま)は誠心の証にすることができるし、
桂樹冬栄  南方では桂の木が冬に花を咲かせるのだ。」

この二章の中に見える呼称「子」「爾」「君」は、同一人物を指すのでしょうか。
それとも、「子」と「爾」は同一人物で、「君」は別の一人を指すのでしょうか。

私は後者の説を取りますが、
話が紛らわしくなっているのは、いずれの人物にも香草が纏わりついているからです。

曹植は敢えてこのような表現をしつらえて、
詩と事実との関係性を分かりにくくしているのかもしれません。

もし本当にそうであるならば、
ではなぜ彼は分かりにくい表現をする必要があったのでしょうか。
この難解さこそが、本詩の成立背景を物語っている可能性もあるように思います。

2021年3月11日