文学的個性とは

こんばんは。

今日は、曹植「惟漢行」に関する考察を短文にまとめる一方、
西晋王朝の宴席で演奏されていた楽曲の歌辞に訳注を施す作業を進めました。

後者は、当時としては無くてはならない有用の言語芸術だったはずですが、
今は、これを積極的に読もうとするのは、よほど奇特な人(研究者)だろうと思います。
一方、曹植の作品は、もう少し読者の幅が広いかもしれません。

ほぼ同じ歳月を渡って今に至る双方の、かくも異なる生き残りのあり様、
それを分けるのは何なのだろうかと考えを巡らせました。

宮廷儀式を彩る歌曲には、その歌辞を作った人の顔が見えません。
他方、曹植作品にはかなり濃厚にそれが感じられます。

では、私は作品に表れた作者の人間性に引かれているのだろうか。
けれども、曹植は自己表現を目指して詩を作っているわけではありません。
そもそもそうした概念は、当時の人々の文学的価値観の中には存在しなかったものです。

曹植の詩は、たとえ楽府詩のような既存の枠を持つものであっても、
何か、その枠の中に収まり切れない、過剰なものを抱えているように感じます。
それが、彼独特の言語表現となって現れ出ているのです。

文学的個性とは、従来にない表現を志向して作り出すものではなく、
ある規範に沿おうとしても、どうしてもそこからあふれ出てきてしまうものではないか。
もちろん、作者の対外的な制作意図といったものとも関わりなく。
その、その人にしかない一種のいびつさが、人を惹きつける魅力の正体のように思えてなりません。
人は、(自分をも含めて)他にはない、それ固有のものに否応なく惹きつけられ、
そこに自分と通じ合うものを感じ取ったとき魅了されるのだと私は思います。

2020年8月18日