文学研究雑感
こんにちは。
「文学研究」とは大きく出たものですが、
週末、少し思うところがあったので記しておきたいと思います。
先週は、曹植作品の、続く時代における受容について記すことが多くありました。
そこで、こうした視点からの研究について、先行事例を探してみたところ、
山東大学の博士学位論文(2014年11月30日発表)、
王津氏による「唐前曹植接受史」と題する研究がありました。
もしかしたら、自分の考えていることは既に論じられているのではないか、
と少しどきどきしながら入手しましたが、縦覧したところ重ならないようでした。
仔細に見ていけば、すでに指摘されていることもあるかもしれません。
ですが、基本的に研究の立脚点に違いがあると感じました。
一般に、中国の論文は、巨視的に文学史を把握する力が強いと感じます。
高いところから通史的に俯瞰するような力強いスタンスです。
(清朝考証学は、これとはかなり異質ですが。)
一方、自分がやっていることといえば、地を這うような読解が基本です。
漢語を母語としない以上、そうするほかありません。
そうした地面すれすれの視点から見えてきたものを拾い上げて、
それらがいつしか有機的に結び合って何らかのことを語り始めるまで、
ゆっくりと熟成を待つような、たいそう迂遠なものです。
こんなに違うと、自分の研究は現代中国の研究者たちに届かないかもしれない。
けれども、それはそれで仕方がないことかと思っていますし、
ここで流されると、自身にとってすら無意味なものになってしまいます。
他方、授業の準備の一環として、
入矢義高『洛陽伽藍記』(平凡社・東洋文庫、1990年)を見ていて、
その「東洋文庫版あとがき」に打ち震える思いがしました。
「ふと立ち寄った小さな古本屋で」見付けた「呉若準『集証』の影印本」を、
「その面白さに牽きこまれて、とうとう徹夜して読み了えた。」
「本を読むことの楽しさにこれほど没入できたのは、私にとっては滅多にない経験で、
その時の興奮を今でも懐かしく思い起こすことができる。」
こんな歓喜をいつか自分も味わえるようになりたい。
それを念じつつ日々精進したいと思います。
2022年10月17日