新しい表現が生まれるとき

こんにちは。

本日、曹植「上責躬応詔詩表」(『文選』巻20)の訳注稿を公開しました。

この文章に、先行する用例の稀な語句が比較的多いことは、
先にも、「冒顔」「形影相弔」「昼分」を取り上げて指摘したことがあります。
では、このような新しい表現は、どうして生まれたのでしょうか。

かつてなかった言葉を創出して、
自らの文学的才能を周囲の人々に誇示して見せるとか、
その自らの才能でもって文学の発展に寄与したいという願いを叶えるとか、
そうした、文学なるものを主体とする発想では、
曹植作品における上述のような現象は捉えられないように思います。

というのは、この作品はほとんど勢いで書かれたようなものだから。
訳注稿の通釈を見ていただければ明らかですが、
この上表文は、推敲を重ねた作品のようには見えません。

たとえば第二段落、短い間隔で「是以(ですから)」が二度見えます。
私には、曹植が勢い込むあまり、この語を重ねて口にしているように感じられます。

その一つ目の「是以」の後には、対をなすフレーズが四つ並びますが、
その意味のバランスから見て、それほど計算されたもののようには思われません。

また、第一段落の文脈は、理路があまりすっきりとしていません。
割り切れない思いが、途切れなくつながっていく辞句のうねりに見て取れるようです。

その、一度に放出するような感情の発露の中で、
これまでになかったような言葉がいくつも転がり出てきている。
そして、その背景にあるのは、身をよじるような、曹植自身の苦境です。

新しい表現というものは、
たとえばこのようなところから生まれると私は考えます。

より素晴らしい表現を模索した結果だと見るのは、
後世の研究者が、机上で考えた空論のように思えてなりません。

2021年9月11日