明帝期初期の曹植
こんばんは。
『北堂書鈔』巻156・凶荒に、曹植「喜雨詩」として、
おそらくはその序文でしょうか、次のような辞句が引かれています。
太和二年大旱、三麦不収、百姓分為饑餓。
太和二年(228)、大かんばつが起こって、各種の麦が収穫されず、
民たちは離散して餓えた。
その時期は、『魏志』巻3・明帝紀により、同年の五月と知られます。
『宋書』巻31・五行志二「恒暘」にも同様の記述が見え、
そこではこの天災の原因が明帝の盛大な宮殿増築にあるとされています。
(当時としては常識の、いわゆる天人相関説です。)
また、これに先立つ同年四月、
明帝が崩御して侍臣たちが曹植を擁立したといううわさが立ちました。
(『魏志』明帝紀の裴松之注に引く『魏略』)
こちらもあわせてご参照ください。
こうしてみると、
曹植は、かつて父曹操がその将来を見込んだように、
たしかに、民たちの暮らしを大切にする、為政者たるにふさわしい一面を持ち、
それに対応して、人々からの信頼と親しみを集める人物であったように想像されます。
以前にも言及したとおり、「求自試表」はこの年の10月頃の作ですが、
それは、自身の能力発揮の機会を切望するだけではなかったのではないでしょうか。
明帝期初期の曹植は、自己不遇感に沈むというよりは、
むしろ、王朝の一員としての使命感を募らせていたと見た方が近いかもしれません。
2021年10月20日