昨日の一部訂正

こんにちは。

曹植「与楊徳祖書」(『文選』巻42)に見える異同について、
昨晩、袋小路に足を踏み入れてしまったのでしたが、
本日、日光の下で『文選』諸本を確認したら、問題の一部が氷解しました。*1

『文選』の六家注本も六臣注本も、本文は「龍淵」に作り、
その下に「善本作泉(善本は泉に作る)」との注記が見えています。*2

六臣注は、李善・五臣(呂延済・劉良・張銑・呂向・李周翰)の順で、
六家注は、五臣・李善の順で、本文の間に注を入れる合本ですが、
李善注が先か後かにかかわらず、本文は五臣注本に拠っているということになります。

ただ、昨日も記したとおり、李善注に指摘する『戦国策』は「龍淵」に作るので、
李善自身が目睹して注した元々の『文選』本文も、「龍淵」に作っていたと見るのが妥当です。

それが、なぜか李善単注本は、本文のみ「龍泉」に改められている。
このことについて、『新校訂六家注文選』(鄭州大学出版社、2015年)第五冊2780頁には、
「按、作「泉」者、避唐諱改(按ずるに、「泉」に作るは、唐の諱を避けて改むるなり)」とあります。

ではなぜ、注の方は「龍淵」のまま残されたのでしょうか。
そこはやっぱりわかりません。

2020年10月13日

*1 『文選』諸本の流伝の系譜については、こちらをご参照ください。

*2 確認したのは、六家注本として足利本、韓国奎章閣旧蔵本、六臣注本としては和刻本(慶安五年刊本)、四部叢刊本です。