書き続けること
昨日は、書けませんでした。
先週末、嚴島神社宝物名品展で、横山大観「屈原図」を見たので、
(思ったよりも大きく〈132.7×289.7㎝〉、灰色を帯びた緑が瑞々しい絵でした。)
この絵が東京美術学校を追われた岡倉天心を表徴したものとされていることをめぐって、
思うところを書きたいと考えていたのです。
明治時代、不遇失意の人に屈原を重ね合わせて表現するという発想があったこと、
屈原という中国古典の英雄は、つい最近まで日本人の心の中にも普通に生きていたのだということ。
また、師の後を追い、自らも辞職するという行動に出る人々がいたことへの感嘆も。
ですが、岡倉天心が職を追われることになった経緯を知ると、その気持ちが萎えました。
横山大観『大観画談』(日本図書センター、1999年)に、「美術学校紛擾事件の真相」の条があり、
菱田春草の絵の評価をめぐる教官相互の対立に、ことの発端があったことが記されています。
そして、これに続けて述べられているのが「日本美術院の誕生と私の「屈原」」です。
明治の人々の精神は、世間に流布するゴシップとは別次元に高く飛翔してしていたのでしょう。
ですが、さる内実を知らされると、なんだか門前で追い払われたように感じました。
自分ごときが感想を書くことなど笑止千万と思わされてしまいました。
「屈原図」の背後に上記の事件があることは、わかる人にはわかったでしょう。
ただ、公開の場でそのことが長らく明らかにされてこなかったのは、
この事件が内包する灰汁が抜けきるまで、それなりの時間が必要だったからではないでしょうか。
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日々書き続けたいのは、これが自分にとっての自主トレーニングだから。
ある水準に達していないと公開できない、と考えると、ほとんどが没になりますし、
その判断にもまたエネルギーを使うことになってしまいますから。
それではまた。
2019年12月10日