曹丕と博士たち

こんばんは。

魏の文帝の黄初二年、曹植は朝廷からの使者に対して悪態をつき、
それが監国謁者潅均によって告発されました。

先週末、ここでも触れたように、
『文選』巻20、曹植「責躬詩」の李善注に引く佚書『曹植集』には、
この時の朝廷での議論について次のように記しています。

博士等議、可削爵土、免為庶人。
博士等の議すらく、爵土を削り、免じて庶人と為す可し。

このような議論を受けた曹丕は、
結局、次のような詔を出してこれを退けています。
それを記す『魏書』(『魏志』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く)にこうあります。

植、朕之同母弟。
朕於天下無所不容、而況植乎。
骨肉之親、舎而不誅、其改封植。
  植は、我が同母弟である。
  わたしは天下のすべてを容認する。まして骨肉の植はなおさらだ。
  肉親は、その罪をひとまず置いて、誅することはない。それ植の封土を改めよ。

『魏志』本伝の記述によれば、この寛大な措置は、
彼らの母、卞太后の特別な計らいによるものであったようですが、
いずれにせよ、この詔により、曹植は臨淄侯から安郷侯に移されただけで済みました。

この一連の出来事は、別の次のようなエピソードを想起させます。

それは、曹操の崩御した年、曹植は曹丕に、亡父を祭らせてほしいと上表しましたが、
博士たちの議論により、曹丕はその申し出を許可しなかったという出来事です。

『太平御覧』巻526に引く当該「請祭先王表」は、
件の上表文に続けて、ことの顛末を次のように記しています。
(この資料はこちらでも提示しました。通釈はそちらをご参照ください。)

博士鹿優韓蓋等以為礼公子不得禰先君、公子之子不得祖諸侯、謂不得立其廟而祭之也。礼又曰、庶子不得祭宗。
詔曰、得月二十八日表、知侯推情、欲祭先王於河上。覧省上下、悲傷感切、将欲遣礼以紓侯敬恭之意、会博士鹿優等奏礼如此。故写以下。開国承家、顧迫礼制、惟侯存心、与吾同之。
博士の鹿優・韓蓋等は以為(おもへ)らく 礼に公子は先君を禰するを得ず、公子の子は諸侯を祖するを得ずとは、其の廟を立てて之を祭るを得ざるを謂ふなり。礼に又た曰ふ、庶子は宗を祭るを得ず、と。
詔に曰く、月二十八日の表を得て、侯が情を推して、先王の河上に祭らんと欲するを知る。上下を覧省すれば、悲傷感切にして、将に礼を遣りて以て侯が敬恭の意を紓(ゆる)めんと欲せしとき、会(たまたま)博士の鹿優等 礼は此くの如しと奏す。故に以下を写す。国を開き家を承くるは、礼制を顧迫すべし、惟れ侯が心に存するは、吾と之を同じうす。

二つの出来事は、結果は異なりますが、
次の点に類似性が認められるように思いました。
すなわち、曹植の言動に対して、
曹丕が心情的に同意しようとする一方、
博士たちがこれを冷徹に阻止しようとするという構図です。

博士たちと曹丕とは、どのような力関係にあったのでしょうか。
曹氏兄弟の関係性を再考する上で、このことが関わるかもしれないと思いました。

2021年11月1日