曹丕も薄葬(続き)

こんばんは。

昨日言及した曹丕の「終制」は、
なんと『三国志』巻2・文帝紀、黄初三年の冬十月の条にありました。
(どうして気づけなかったのか悔しい限りです。)

その中、次のような記述は、曹植「文帝誄」に踏襲されています。

昔堯葬于穀林、通樹之、……故葬於山林、則合於山林。封樹之制、非上古也、吾無取焉。寿陵因山為体、無為封樹。無立寝殿、造園邑、通神道。……
無施葦炭、無蔵金銀銅鉄、一以瓦器、合古塗車・芻霊之義。

昔 堯は穀林に葬られ、通じて之を樹う、……故に山林に葬れば、則ち山林に合す。封樹の制は、上古に非ざれば、吾はここに取る無し。寿陵は山に因りて体を為し、封樹を為すこと無かれ。寝殿を立て、園邑を造り、神道を通ずること無かれ。……
葦炭を施す無く、金銀銅鉄を蔵する無く、一に瓦器を以てし、古の塗車・芻霊の義に合せよ。

薄葬は、彼らの父曹操も遺言していますが、興味深いのはそれを命じた理由です。

曹操の遺令(『三国志』巻1・武帝紀)に見えているのは、
「天下尚未安定、未得遵古也(天下は尚ほ未だ安定せず、未だ古に遵ふを得ざるなり」という言葉、
他方、曹丕が気にしているのは、盗掘されて辱めを受けるということです。

同じ薄葬を命ずるのでも、曹丕にそこはかとなく漂う小物感。
為政者としての器の違いというしかないです。

2020年8月24日