曹操の文治志向

曹植の「宝刀賦」(『太平御覧』巻346)の序文にこうあります。

建安中、家父魏王乃命有司造宝刀五枚。
三年乃就、以龍虎熊馬雀為識。
太子得一、
余及余弟饒陽侯各得一焉。

其余二枚、家王自杖之。

建安年間中(196―220)、我が父魏王(曹操)は、役人に命じて宝刀五枚を作らせた。
三年の歳月が経って出来上がり、龍、虎、熊、馬、雀でもって目印を付けた。
太子(曹丕)が一枚を与えられ、
自分と我が弟である饒陽侯(曹林、又の名を豹)がそれぞれ一枚ずつ与えられた。

その残りの二枚は、父が自ら保持した。

これに対応する内容のことは曹操も記していて、
「百辟刀令」(『藝文類聚』巻60)に、次のようにあります。

往歳作百辟刀五枚、
適成、先以一与五官将、
其余四、吾諸子中有不好武而好文学、将以次与之。

去る年、百辟の刀五枚を作り、
ちょうど出来上がったところで、まず一枚を五官中郎将(曹丕)に与え、
その残りの四枚は、我が子らの中で、軍事を好まず学問を好む者に順次与えていこう。

まず、曹植が曹丕を「太子」と称しているのは、
厳密には、曹操の令にいう「五官将」が正しいでしょう。
曹植の賦の序文は、後日記されたか、後人が改めた可能性もあります。

すると、曹操が如上のことを行ったのは、
曹丕が五官中郎将となった建安16年(211)から、
太子に立てられた建安22年(217)までの間となるでしょう。

その曹操が言う「武を好まずして文学を好む」にはっとさせられました。

曹操はまた「内誡令」(『太平御覧』巻345)ではこう言っています。

百錬利器、以辟不祥、摂服奸宄者也。
百錬の利器(武器)は、不祥事を斥け、邪悪な者を正し服従させるものである。

武器は、やむを得ず行使するものであって、それ自体を目的としてはならない、
そう家族に対して戒めているのですね。

曹操はこの間、丞相から魏公(213年)、魏王(216年)へと地歩を固めてゆきますが、
並行して、南へ呉の孫権を伐ちに行ったり、西へ漢中の張魯を降しに行ったりしています。
それでも、武ではない、文による統治を、子どもたちに託そうとしている、
その志の高さに少なからず驚かされました。

もっとも、曹操のことですから、何か現実的な目論見があったのかもしれませんが。

それではまた。

2019年10月21日