曹操の自己認識

こんばんは。

曹操は、曹植からのみならず、自身でも自らを周文王や周公旦になぞらえていたのでしたが、
この自己認識は、若い頃から終始一貫していたわけでもなさそうです。

たとえば、初平2年(191)、袁紹のもとを離れた荀彧を配下に迎え入れた曹操は、
大いに喜び、彼を「吾之子房也」と称しています。(『魏志』巻10「荀彧伝」)
子房すなわち張良は、漢の高祖劉邦に仕えて、その天下制覇を支えた智者です。
荀彧を張良だという以上、自身は漢の高祖だということになるでしょう。

また、興平元年(194)、陶謙の没後すぐに徐州を奪取しようとした曹操を、
荀彧は、漢の高祖や後漢の光武帝を引き合いに出して諫めています。(同上「荀彧伝」)
これは、曹操と荀彧との間に、共通認識として、
劉邦にも比すべき覇者への道が見えていたということを物語るでしょう。

更に、建安元年(205)、曹操が袁譚を南皮に破ると、臧覇らが祝賀に集まり、
自身の子弟や将軍たちの父兄家族を鄴に赴かせようとしましたが、
曹操は彼らの忠孝を、劉邦に対する蕭何、光武帝に対する耿純に比しています。
(『魏志』巻18「臧覇伝」)

ということは、王朝を打ち立てた漢の高祖や光武帝に自身をなぞらえているのです。

こうしてみると、比較的若い頃の曹操は覇者たらんとする野心を持っていたが、
自身の力が圧倒的になっていくにつれ、周囲の状況を勘案しつつ、
その自らの立ち位置を修正していったと言えるようです。

建安15年(210)に発布された「述志令(己亥令)」では、
自らの来し方を振り返り、終始一貫して寡欲であった自身をアピールしていますが、
それは多分に、後から意味づけ直され、演出されたものだったでしょう。

2020年11月4日