曹植「七哀詩」の制作年代(疑念)

昨日、以下のような推測を述べました。

曹植「七哀詩」がもし王粲や阮瑀らとの競作であった場合、
その制作年代は、建安13年(208)から17年(212)に絞り込まれる。

この間で、曹植が兄曹丕と自身とを、
「清路の塵」と「濁水の泥」のように感じることがあったとすれば、
それは、建安16年(211)、曹丕が五官中郎将・丞相副となったことだろう、と。

これは、詩の世界を、現実と密接に関わるものとして捉える見方です。

しかし、このような見方を推し進めていった場合、
たとえば、前掲の対句の直前にある次のような表現はどう捉えられるでしょうか。

君行踰十年  あなたは旅行くこと十年を超え、
孤妾常独棲  身寄りのない私はいつも一人ぼっちで暮らしている。

まず、曹丕と曹植とが、十年以上も離れ離れになっていたことはありません。
また、仮に本詩の成立を211年だとして、その十年前は、曹丕が15歳、曹植は10歳、
この年齢では、前掲のような比喩表現はあまりしっくりきません。

けれども、徐公持は、この「踰十年」に着目し、
「君」と「妾」とを、君臣関係になぞらえたものと捉え直した上で、
本詩の成立を、明帝期の太和五年(230)と推定しています。*

直観的に、それはどうなのだろう、と感じるのですが、
この感覚はどこから来るのか。

もうしばらく判断を保留にしておきます。

2024年4月27日

*徐公持『曹植年譜考証』(社会科学文献出版社、2016年)p.387。