曹植「九詠」の佚文について

こんばんは。

『曹集詮評』の著者丁晏は、
「九詠」の佚文を収載した後で、次のように記しています。

以上十六条、引為九詠者僅八条、
外擬九詠一条、九歌詠二条、七詠二条、擬楚辞一条、擬辞二条。
子建蓋擬楚辞之九歌為九詠、故称目錯出。
前正文九詠篇首、芙蓉車兮桂衡二句、書鈔一百四十一即引作擬楚辞、是其証也。
其称七詠者、文誤耳。*
茲掇挙明引九詠者於前、而餘八条附之。

 以上の十六条で、「九詠」として引くものはわずかに八条のみ、
 その他は「擬九詠」一条、「九歌詠」二条、
 「七詠」二条、「擬楚辞」一条、「擬辞」二条である。
 曹植は、おそらく『楚辞』の九歌を模擬して「九詠」を作ったのであり、
 それゆえ、篇目について様々に不揃いな呼称が出現したのだろう。
 前の正文「九詠」の冒頭にいう「芙蓉車兮桂衡」の二句が、
 『北堂書鈔』巻一百四十一では「擬楚辞」として引かれているのがその証である。
 その「七詠」と称するものは、文字が誤っただけである。*
 ここに取り上げる上で、明らかに「九詠」として引くものは前に、
 それ以外の八条は、その後に付記する。

このように、丁晏は、
曹植「九詠」が『楚辞』九歌の模擬作品であることをつとに指摘していました。
たしかに、『北堂書鈔』などの類書に引かれた本作品には、
それが『楚辞』を祖述するものであることを示す篇目が多く見られます。
(そうすると、遡れば『北堂書鈔』の編者虞世南が指摘していたと言えます。)

では、様々な篇目で伝わるそれらの断片は、
“正文「九詠」”の一部が散逸したものなのか、
それとも一連の作品群を構成する、“正文”以外の一篇なのでしょうか。
この点については、丁晏は特に触れていないのですが、
私は、後者の可能性が高いと考えます。
曹植「九詠」はもともと、『楚辞』の九歌のように九篇あったのであり、
その中の一篇だけが“正文”として伝わっているという見方です。

なお、曹植には別に「九愁賦」(『曹集詮評』巻1)という作品があって、
その中の一句「寧作清水之沈泥、不為濁路之飛塵
(寧ろ清水の沈泥と作るとも、濁路の飛塵とは為らざれ)」が、
“正文「九詠」”の最後の部分に紛れ込んでいるのですが、
「九愁賦」と「九詠」とは、篇名は似ていても、
本来は別のジャンルの作品ではなかったかと考えます。
「九愁賦」は完結する一篇、
「九詠」は、その作品構成においても『楚辞』九歌を踏襲していた、
そのことを示唆するのが、比類を見ない佚文の数の多さと多彩さである、
という見通しです。

2022年9月6日

*丁晏が「七詠」として採録する、『北堂書鈔』巻158からの二条、孔広陶校註『北堂書鈔』(天津古籍出版社、1988年)p.735は「九詠」に作る。丁晏が目睹した『書鈔』は、未校訂のテキストであった可能性もある。