曹植「九詠」の注釈

こんばんは。

先週述べた曹植の「九詠」という作品について、
もしかしたら、これは周知のことを言っただけではないか、
と思って、CNKI(中国の論文データベース)で確認してみました。

総数で5000件を超える曹植関係の学術成果の中で、
この作品を主題として取り上げているのは、修士論文2件、雑誌論文1件。
それらは、曹植「九詠」が『楚辞』九歌の模擬作品であることを指摘しています。
中国の研究者にとって、これは言うまでもないことなのでしょう。
だから、それを敢えて取り上げて論じる意味を感じないし、
取り上げても、それを更に深める意味を感じないのかもしれません。

私は、ここに自分なりの存在意義があるだろうと考えています。
多く論じられている作品に、更に多くの論者が蝟集するのには理由がありそうです。
けれど私は、自分の目に留まった問題点を掘り下げる方向を取ります。
(中心から外れたテーマで論文を書くことに意味があるのか自問もしますが、)
おそらくは普遍的な法則性を目指す理系の学問とは違って、
文学研究は、人間の様々なあり様を“発見”することに意味がある、
それも、いろいろある、ではなくて、そこから普遍性に至る道を探るものだと思うから。

さて、曹植「九詠」は注釈付きで行われていたらしいことについて。
『文選』李善注に引くところは前回提示したとおりです。

そのうち、「曹植九詠章句」は、2ヶ所とも「鍾、当也」という文面で、
この語釈は、他にはあまり見かけないものかもしれません。

「曹植九詠注」として引くのは、3ヵ所とも牽牛織女についての説明で、
曹植「洛神賦」(巻19)、曹丕「燕歌行」(巻27)に注してこれを引いたのは、
作者との関連性の深さからなのかもしれません。
けれど、謝恵連「七月七日夜詠牛女」(巻30)に対してはどうでしょう。
李善は、本詩の題目の下に、既に『斉諧記』を引いた上で、
更に、詩の本文でも2ヶ所、「曹植九詠注曰」として注記をしています。

李善が引く曹植「九詠」注釈は、以上の二種類だけなので、
初唐の時点ではすでに、その全文は伝わっていなかったのかもしれません。
その貴重な断片を、李善『文選注』はとても尊重している、という印象を持ちました。

また、注釈付きで読まれていたらしいことは、
曹植「九詠」自体が、いかに大切にされていたかを物語ってもいるようです。
(注釈が曹植自身による場合は、また別の意味が生じると思います。)

2022年9月5日