曹植「大魏篇」への気づき
曹植「鼙舞歌・大魏篇」で、次のような句に遭遇しました。
無患及陽遂 無患及び陽遂にして、
輔翼我聖皇 我が聖皇を輔翼す。
「輔翼」は、「輔」も「翼」も補佐するの意であり、
それが二つ重なる熟語ですから、特別珍しい語ではないと思っていました。
ところが、この動作の主体がわからない。
上の句の、「無患」及び「陽遂」はいずれも状態を表す語ですから、
それを「輔翼」の主語と見なすことはできません。
そこで、改めて「輔翼」について調べてみると、
『史記』巻33・魯周公世家に、次のような文脈で用いられていました。
周公旦者、周武王弟也。
自文王在時、旦為子孝、篤仁、異於群子。
及武王即位、旦常輔翼武王、用事居多。
周公旦は、周の武王の弟である。
文王の在世中から、旦は子として孝であり、誠意と仁愛にみちて、他の兄弟とは異なっていた。
武王が即位すると、旦は常に武王を補佐し、万事に尽力した。
周公旦は、後半生の曹植がしばしば言及する人物で、
周の文王、武王、周公旦の間柄は、
そのまま武帝曹操、文帝曹丕、曹植の父子兄弟関係に重なります。*
前掲の『史記』では「輔翼」は武王を対象としていますが、
曹植「大魏篇」ではそれが「我聖皇」です。
「聖皇」という語は、
「大魏篇」を含む曹植「鼙舞歌」五篇のすべて、及び「応詔」(04-08)にも見え、
これが文帝曹丕を指すことは言うまでもありません。
すると、「輔翼我聖皇」の主語は、
周公旦と重なる曹植その人であると暗示されているのでしょうか。
もしそうだとすると、曹植は本詩で見果てぬ夢を詠じていることになります。
曹植が前掲の『史記』をどこまで強く意識していたのか、
前述のような推測は「大魏篇」の文脈に沿うものか、といった懸念も多々ありますが、
少なくとも、本詩の背後に周公旦のイメージが重ねられているとは言えるかもしれません。
ということに“気づいた”と思ってどきどきしていたら、
黄節『曹子建詩註』がすでに、「輔翼」の語釈として前掲の『史記』を挙げていました。
先人も夙に、前述のことに気づいていらっしゃったのかもしれません。
2025年5月28日
*このことは、たとえば拙論「曹植における「惟漢行」制作の動機」(『県立広島大学地域創生学部紀要』第1号、2022年)で論及した。