曹植「惟漢行」への疑問(続き)

こんばんは。

曹植の「惟漢行」が曹操の「薤露・惟漢二十二世」を意識しているとして、
弔われているのは、魏王朝そのものでなければ、前年に亡くなった曹丕でしょうか。
いずれにしても、それは解釈次第で不穏な意味を帯びることになります。

曹植「惟漢行」の成立が太和元年だとして、
曹植は同年、雍丘から浚儀に移され、翌年、再び雍丘に戻されています。
この異動は、「惟漢行」が放つ不穏当さに起因するものであった可能性もあります。

でなければ、曹植「惟漢行」は人に知られないことを前提に作られたのでしょうか。

一般に、鋭い批判も歌に乗せれば罪せられないはずですが、
ある種の歌に乗せることは、かえってその歌辞に別の意味を重ねることになります。
「惟漢行」の新歌辞を作るということはまさしくそれでしょう。
明帝を諫めるという趣旨に、滅びゆく(亡くなった)ものを弔う意味が重なる、
このことを曹植が知らなかったはずはありません。

曹植は、この「惟漢行」が明帝には届かないのを前提で作ったのでしょうか。
明帝は、一番にその言葉を届けたい相手であったにも関わらず。

あるいは、明帝に為政者としての自覚を促しつつ、
もし姿勢を正しく保てないならば滅亡だ、と戒めているのでしょうか。
そんな劇薬のような言葉は、諫言としての効果を期待できないように思います。

曹植が、曹操の「薤露」を踏まえた理由、
そして、その新歌辞を作った後、それをどうしたのかが釈然としない。
明帝に奉ったのか、封国で歌わせたのか、それともしまい込んでいたのでしょうか。

2020年7月18日