曹植「惟漢行」をめぐる妄想
こんばんは。
曹操の「薤露・惟漢二十二世」に基づく曹植の「惟漢行」は、
明帝が即位してそれほどの時を経ていない大和元年(227)秋頃の作だと思われます。
仮にこの推定が妥当だとして、
この詩を、ほぼ同じ時期、太和二年に作られた「求自試表」と比べると、
何かが決定的に違うように感じられるのはなぜでしょうか。
「惟漢行」も「求自試表」も、周王室を意識していることでは共通しています。
ですが、「惟漢行」には顕著な能動性、
すなわち、甥に当たる新皇帝を諫める立場に自らを規定して言葉を発する姿勢が、
「求自試表」にはほとんど認められません。
こちらは、皇帝に仕える臣下として、ひたすらに立功の機会を懇願するばかりです。
これはあくまでも想像ですが、
曹植は、文帝曹丕が亡くなって明帝曹叡に代替わりした時、
自分の立場にふさわしい役割が与えられることを期待したかもしれません。
周公旦が成王を補佐したように、曹叡の叔父にあたる自分は明帝を補佐するのだ、と。
そこで、周公旦が周文王の逸話を語って聞かせつつ成王を戒めたように、
曹操の偉業を意識しながら、明帝を諫めようとしたのが「惟漢行」ではないかと思うのです。
ですが、明帝を戒める内容の歌辞を、
宮廷歌曲「相和」の、しかも曹操の歌辞による「薤露」に乗せるということは、
皇帝周辺の官僚たちには、王朝の権威をないがしろにするものとして危険視され、
それがもとで、曹植はいよいよ朝廷から遠ざけられることになったのかもしれません。
そこで、その誤解を払拭し、自身を試してほしいと懇願したのが「求自試表」だったのではないか。
こう想像したのは、
制作年も近く、同様な内容を織り込みながら、
その言葉の発し方が両作品間でひどく異なっているからです。
2020年7月23日