曹植「朔風詩」、別の見方
こんばんは。
今日も前日の続きです。
曹植「朔風詩」第七・八章に詠じられた、香草をめぐる人物たちについて。
第七章にいう「子」「爾」は、詩を詠じている人と対等の関係にある人、
第八章にいう「君」とは、「子」「爾」とは別の人物で、
詩を詠じている人と、彼が「子」「爾」と呼び掛ける人の両方から香草を捧げられる主君。
昨日はこのように解釈しました。
けれども、「子」「爾」は「芳草を好む」人物で、
「君」に対しても、誠意を示すべく「秋蘭」や「桂樹」が贈られようとしています。
ならば、「子」「爾」「君」は同一人物を指すと見られないでしょうか。
同一作品の中で呼称が変わったことは、心理的な移ろいを表すものとも考え得ます。
今仮に、この三つの呼称が等しく指示している人物を「あなた」とし、
詩を詠じている人物を「わたし」として話を進めてみます。
「わたし」は「あなた」と、昔は親しい間柄だったが、今は長らく別離の状態にある。
このことは、第三・六章で明言されています。
そして、「わたし」は「あなた」と別れて、長らく厳しい旅を続けてきた。
このことは、第四・五章で詠じられています。
では、「わたし」と「あなた」との位置関係はどうでしょうか。
第一・二章からうかがえるのは、二人は南北に引き裂かれているらしいということ。
そして、第九・十章で、「わたし」は「あなた」に向けて、
舟を泛べて会いにいきたいが、その手だてがないのだと詠じています。
舟といえば、南方への交通が思い浮かべられます。
そして、そのことは、第一・二章に詠じらたことと符合します。
そうすると、「わたし」は北方、「あなた」は南方にいることになります。
ところで、第一章で「朔風」に向かう人、つまり南方にいる「あなた」は、
北風に「魏都」を想起し、この実在する地を懐かしんでいました。
ここまできて、よくわからなくなるのです。
実在する土地を持ち出してきているからには、
この詩には、何らかの現実が踏まえられているのでしょう。
「子」「爾」「君」が同一人物だとして、それは誰を指すのでしょうか。
2021年3月13日