曹植「精微篇」と左延年「秦女休行」
先日訳注を公開した曹植「精微篇」と、
昨日こちらで紹介した左延年「秦女休行」とを並べてみると、
いくつか通底する部分があることに気づきます。
曹植「精微篇」は、秦女休が恩赦に会った場面を切り取ってこう詠じます。
女休逢赦書 女休の赦書に逢ふは、
白刃幾在頸 白刃の幾(ほとん)ど頸(くび)に在るときなり。
左延年「秦女休行」の末尾は、
この場面を、更に鮮明な臨場感をもって次のように描いています。
両徒夾我 両徒 我を夾(はさ)み、
持刀刀五尺餘 刀を持つ 刀は五尺餘り。
刀未下 刀未だ下らざるとき、
朣朧撃鼓赦書下 朣朧として撃鼓あり 赦書下る。
また、曹植「精微篇」には、
勇敢な娘たちと息子たちとを対比させる次のような句が見えています。
(秦女休その人を指していう言葉ではありません。)
多男亦何為 男多きも亦た何をか為さん、
一女足成居 一女 居を成すに足る。
……
辯女解父命 辯女 父の命を解く、
何況健少年 何ぞ況んや健なる少年においてをや。
左延年「秦女休行」にも、これと同質の次のような句が認められます。
兄言怏怏 兄の言 怏怏たり、
弟言無道憂 弟(いもうと)の言 憂ひを道(い)ふ無し。
こうした発想の句は、
緹縈を詠じた班固の詠史詩(『文選』巻36李善注に引く)にも、
次のとおり見えています。*
百男何憤憤 百男 何ぞ憤憤たる、
不如一緹縈 一の緹縈に如かず。
曹植「精微篇」に共通する要素を持つ作品や著作物は、
同時代にも、また前後の時代にも、まだいくらでもあるでしょう。
これらの複数の作品に通底する要素は、
それぞれの作者が創り上げた詩想や表現なのではなくて、
(曹植が強い女性を崇拝していたなどとは言えないことです。)
彼らが生きていた時代の意識下に通底していた感情なのだろうと思います。
(それも、知識人社会の枠に限定されない、民間に広く流布する感情)
そうした時代の底を流れていた感情の分厚い層は、
個々の固有の作者を越えて、彼らの精神的土壌を為していたものでしょう。
ひとりひとりの作者の独自性も、その歴史的位置も、
この分厚い土壌を視野に入れてこそ究明できるのだと考えます。
2024年12月1日
*詩全体の本文、訓み下し、通釈は、昨日も紹介したこちらの拙稿に示してある。