曹植「責躬詩」札記1
こんばんは。
曹植「責躬詩」(『文選』巻20)の第21・22句、
「帝曰爾侯、君茲青土(帝曰く 爾 侯よ、茲の青土に君たれと)」について。
上の句は、『尚書』に散見する「帝曰爾(汝)~」という措辞を用い、
曹植詩における「帝」は、彼に藩国への赴任を命じた曹丕のことを指しています。
曹植が臨菑侯に封ぜられたのは、建安19年(214)のことでしたが、
220年、曹操が亡くなり、曹丕が魏王に即位すると、当地に赴くよう命じられました。
(『魏志』巻十九・陳思王植伝)
一方、下の句が踏まえたものとして、『文選』李善注は、
『漢書』巻63・武五子伝に記す、劉閎を斉王に封じた策書を挙げています。
嗚呼、小子閎、受茲青社。……封于東土、世為漢藩輔。
(ああ、小子閎よ、茲の青社を受けよ。……東土に封じ、世々漢の藩輔と為す。)
ですが、この句はもしかしたら、直接的には、
曹植自身が臨菑侯に封ぜられたときの策書を踏まえているのかもしれません。
それは、彼の「諫取諸国士息表」(『魏志』陳思王植伝の裴松之注に引く『魏略』)に、
次のとおり直接引用されています。
植受茲青社。封於東土、以屏翰皇家、為魏藩輔。
(植よ茲の青社を受けよ。東土に封じ、以て皇家を屏翰せしめ、魏の藩輔と為す。)
この表現から見て、前掲の『漢書』を下敷きにしていること明白です。
そして、この魏王朝から下された策書は、
その一部が、曹植の「責躬詩」にほぼ原形のまま取り込まれ、
更に、後の明帝期に書かれた「諫取諸国士息表」にも引用されたということです。
「諫取諸国士息表」では、前掲のような策書の引用に続いて、
藩国とはいえ、その機能を持ち得ないような人員配置であったことが述べられています。
臨菑侯として青州へ赴くことを曹植に命じた策書は、
彼にとってよほど深く記憶に刻み込まれる出来事だったのかもしれません。
2021年10月22日