曹植「責躬詩」札記3
こんばんは。
曹植「責躬詩」の第25~28句についての疑問。
本文は次のとおりです。
車服有輝、旗章有叙。済済雋乂、我弼我輔。
この最後の句について、
先行研究では多く次のように解釈しています。
まず、「我」は曹植自身のことを指す、
そして、「我」を「弼・輔」する、つまり輔佐して助けるのは、
「済済たる雋乂」、ずらりと居並んだ俊才たちだと。
けれど、「輔」「弼」という語は、
曹植のような立場の人物に対して用いられるのでしょうか。
『尚書大伝』(『礼記』文王世子の正義に引く)にこうあります。
古者天子必有四隣。前曰疑、後曰丞、左曰輔、右曰弼。
古は天子には必ず四隣有り。
前を疑と曰ひ、後を丞と曰ひ、左を輔と曰ひ、右を弼と曰ふ。
つまり、「弼」も「輔」も、天子を補佐する人々です。
すると、「我」は、「わたし」、曹植自身をいうのではなくて、
「我が君」、魏の文帝曹丕を指すということになります。
ただ、そう解釈すると、
直前の「車服有輝」「旗章有叙」とのつながりが悪くなります。
「車服」や「旗章」は、皇帝から諸侯に対して下賜されるものですから、
この二句は、諸侯を描写する句だということになります。
めまぐるしく主語が変わる不自然さ。
そこから、先人たちは上記のように解釈したのでしょうか。
もし「我」が曹植だとすると、
これはたいへん不遜なものの言い方だということになるでしょう。
この問題も、本作品を最後まで読んだら、あるいはほどけるのかもしれません。
2021年10月26日