曹植「責躬詩」札記4

こんばんは。

先に、本詩の「朱旗所払、九土披攘」に酷似する句が、
同じ曹植の「漢高帝賛」にも「朱旗既抗、九野披攘」と見えていることから、
文帝期の曹植は、父曹操を、漢の高祖劉邦に重ねてもいたのではないかと述べました。

つまり、魏王朝を周王朝になぞらえ、
曹操を周文王に、自身を周文王に重ねるという気持ちは、
この時期の曹植において、未だ顕在化していなかったのではないかと見たのです。

ですが、「責躬詩」を読み進めながら、
必ずしもそうでもないかもしれないと思うようになりました。
というのは、本詩の随所に、周王朝に関わる言葉が踏まえられているからです。

その冒頭「於穆顕考、時惟武皇」からして、
『毛詩』周頌「清廟」にいう「於穆清廟(ああ穆たる清廟)」を踏まえています。
「清廟」という詩は、周文王を祀るものです。

同じ「清廟」にいう「済済多士、秉文之徳(済済たる多士、文の徳を秉る)」は、
曹植「責躬詩」の第27句「済済雋乂」にも影響を及ぼしています。

この「済済」は、『毛詩』大雅「文王」にも「済済多士、文王以寧」と見えています。
「済済たる多士」によって文王の魂も安らかだ、と歌うこの詩も、
詩題「文王」が端的に示すとおり周文王を讃えるものであり、

その中の一語「済済」が、曹植詩に用いられているのです。

更に、曹植「責躬詩」の第11句「篤生我皇(篤く我が皇を生む)」は、
『毛詩』大雅「大明」にいう「篤生武王(篤く武王を生む)」を明らかに踏まえ、
ここでは周の武王と曹丕とが重ねられています。

ただ、曹植の明帝期の作「惟漢行」ほどには、
自身を周公旦に重ねるという意識は明確でなかったかもしれません。

このことは、一昨日に言及した「責躬詩」第24句「方周于魯」が示唆しています。
この表現が踏まえる『毛詩』魯頌「閟宮」の「建爾元子、俾侯于魯」は、
周の成王の、周公旦に対する待遇を言うものでしたから。
ここには、周公旦に重なる自己という認識が、
まだ明確な焦点を結んではいないように感じます。

2021年10月27日