曹植と王粲

昨日、曹植「洛神賦」の表現の中に、
王粲「神女賦」に倣ったかと見られる表現のあることを述べました。

曹植と、建安七子の代表格である王粲とは、
この時期を代表する文人としてしばしば並記されるばかりでなく、
両者の間には、文学創作上、親密な交わりがあったことが認められます。

たとえば、王粲「雑詩」(『文選』巻29)への応答として、
曹植には「贈王粲」(『文選』巻24)という贈答詩があります。*1

また、曹植「七啓」(『文選』巻34)の序文には、
「遂に「七啓」を作り、并びに王粲に命じて作らしむ」とありますし、

王粲「詠史詩」と曹植「三良詩」(いずれも『文選』巻21)とは、
テーマを同じくする、おそらくは同じ場での作です。*2

王粲(177―217)が荊州から曹爽傘下に下ったのは建安13年(208)、
この時、曹植(192―232)は十七歳、王粲は三十二歳でした。
以来、王粲が疫病で多くの人々と同時に没するまで、
曹植は、十五歳年長の王粲から多くの文学的表現を学び取ったようです。

そして、その文学的影響は、曹植の後半生にまで及んでいます。
黄初三年の作と曹植自身が記す「洛神賦」以外にも、
たとえば、「雑詩六首」其一(『文選』巻29)にいう「離思故難任」は、
王粲「七哀詩二首」其二(『文選』巻23)にいう、
「羈旅無終極、憂思壮難任(羈旅に終極無く、憂思 壮にして任へ難し)」に、
また、同じく「雑詩六首」其三にいう「悲嘯入青雲」は、
『藝文類聚』巻90に引く王粲詩にいう、
「哀鳴入青雲(哀鳴 青雲に入る)」に学んだと見られます。
(類似する句として、曹植「闘鶏」詩にも「長鳴入青雲」とあります。)

他方、同じ曹植「雑詩六首」其五にいう「惜哉無方舟」は、
前掲「贈王粲」詩の「惜哉無軽舟(惜しい哉 軽舟無し)」に酷似します。

曹植は、苦境の中にあった黄初年間半ばのこの時期、
王粲とのかつての文学的交流を思い出していたのかもしれません。
それは、王粲への追慕という具体的なものではなかったとは思いますが、
この先輩に学んだ言葉の数々が、後半生の曹植を支えていたことは確実だと言えます。

2023年12月7日

*1 拙論「五言詩における文学的萌芽―建安詩人たちの個人的抒情詩を手掛かりに―」(『中国文化』第69号、2011年)を参照されたい。
*2 かつて拙論「五言詠史詩の生成経緯」(『六朝学術学会報』第18集、2017年)で触れたことがある。