曹植と諸葛亮

こんにちは。

『曹集詮評』巻9「漢二祖優劣論」の校勘をしていて、
『金楼子』巻4・立言篇九下に、次のような記事があるのを知りました。

諸葛亮曰、曹子建論光武、将則難比於韓周、謀臣則不敵良平。
時人談者亦以為然。
吾以此言誠欲美大光武之徳、而有誣一代之俊異。何哉。……

 諸葛亮曰く、曹子建 光武を論ずるに、
 将は則ち韓(韓信)周(周勃)に比(なら)び難く、
 謀臣は則ち良(張良)平(陳平)に敵(かな)はず、と。
 時人の談ずる者も亦た以て然りと為す。
 吾は以(おも)へらく 此の言は誠に光武の徳を美大せんと欲するも、
 而も一代の俊異を誣(そし)るところ有り。何ぞや。……

曹植(192―232)と諸葛亮(181―234)とは、同時代の人です。
その諸葛亮が、光武帝に対する曹植の批評を取り上げて論じています。
また、同時代人の談論も、曹植の批評に同意するものが多い、と記しています。

魏王朝に罪人扱いされていた曹植が名誉を回復し、
その百余篇の作品が、王朝の内外に副蔵されることとなったのは、
景初年間(237―239)中に発布された詔によるものですが、
(『三国志(魏志)』巻十九・陳思王植伝)

『金楼子』に記されているのはそれ以前のことです。

もし、この記事が事実を記しているのだとするならば、*
曹植の作品は、彼の存命中から広範な人々に読まれていたことになります。
しかも、魏とは敵対関係にあった蜀にまで伝播していたことを意味するでしょう。

曹植自身が感じていたであろう閉塞感とは正反対の、
思いのほか開けた空気に、何か、非常に意外な感じを受けました。

2022年10月12日

*清・厳可均『全三国文』は、諸葛亮のこのコメントを採録していない。